Yahoo Japanオリジナル記事。
内容自体は消滅寸前の社会党史の要約と言っていい。当blogでも共産党の将来の姿だと何回か書いた。
この期になると新社会党代表の娘さえ社民党比例代表で出てくるとかスゲー状態なのだけど、ぼくちん的に気になったのは伊東秀子たんの証言
元号が平成に代わり、最初の国政選挙となった89年の参院選。土井氏は女性候補を積極的に擁立し、自民党の36議席を上回る46議席を獲得した。マドンナ旋風とも呼ばれ、土井氏は「山が動いた」と語った。参議院で自民党が過半数を割る「ねじれ国会」になった。
翌年の衆院選でも勢いは続き、社会党は53議席増やして136議席を獲得する。当時、札幌で弁護士をしていた伊東秀子氏は、土井氏の熱烈な要請を受けて衆院選に立候補。全国最多となる26万票を獲得し、初当選した。
白川勝彦と共に民青でがんばってたと宮崎学たんが言ってたぞ〜〜w。ついでに当時学生運動界隈で最も恐れられていた学たんに激怒して責めまくってた元女傑の弁護士さん、ウソついちゃいけませんwww
まぁ、一度政治の現場から離れて長かったことで「政治家と関係なく普通に生活していた」ってことかも知れないがーと言いたいが、自伝でここのところごっそり抜け落ちているんで確信犯なんだろうw
東大時代民青で、東大女子寮自治会代表。全寮連(全学連分裂後も、学寮は民青も全共闘も同じ屋根の下で暮らすという特殊性ゆえ全寮連は分裂せずに来た)の分裂大会に民青系代議員として出席。東大卒後弁護士になり日共系法律事務所に就任。その後夫の北大教授就任に伴い、北海道へ移住。土井委員長の呼掛けに応じて、日共離党し旧社会党から立候補当選。その後横路旧社会党北海道知事の後継選挙では、保守系から立候補して落選。宮崎学氏は、著書で「彼女は頭もよく美人でマドンナ的存在だった。しかし確固とした信念がなく、それは後の政治的軌跡の動揺にも現れている。所詮は周囲からちやほやされるマドンナに過ぎなかった」と酷評されていた。
2)白川勝彦
新潟県十日町高校卒後、東大法学部入学。民青で活動して、全寮連副委員長。卒後弁護士資格取得して、日共系法律事務所に就職。故郷の新潟に戻る際に離党して、田中角栄に弟子入り。保守系無所属で衆院選立候補し、当選後自民党入り。自治相まで務めたが、自公連立に反対して離党したが以後は当選できず。ざっとこんなところでしょうか。川上徹の「査問」にも、新日和見主義事件で民青専従解任後「白川勝彦のところへ司法試験受験相談に行った」との記載がありますた。