101歳、インパール作戦で生き残った、ひょっしたら唯一存命かも知れない方の回顧録。

1919年、京都府福知山市の農家に5人きょうだいの四男として生まれた。
 物心の付いた時には天皇は神聖な存在だった。尋常小学校の校門に昭和天皇の写真を納める「奉安殿(ほうあんでん)」があり、登校時に背筋をピンと伸ばして敬礼した。
 朝礼では校長が白い手袋をはめて「教育勅語」を読み上げた。「お国のために死ぬのは名誉」と心から信じていたと振り返る。
 「愛する祖国や同胞を守るために(略)覚悟を決め、力を尽くしましょう」。教育勅語の現代語訳(明治神宮編)だ。「一人の命は地球より重い」と教えられてきた私たちとは違う。
 10歳で昭和恐慌、12歳で満州事変が起きる。谷口さんは14歳で国鉄に就職して地元で働き始めた。
 18歳で日中戦争が始まると、二つ上の兄が出兵するのを見送った。後に兄は戦死し、その婚約者と自分が終戦後に結婚するとはまだ思いもしない。

 日中戦争に欧米が介入して日本が孤立する中、共産党員の男性らが玄関をたたき、「戦争はだめや。負けるで」とこっそり親を勧誘していたのを覚えている

 「けしからんと思ってました。当時は武力の強い国が領土を広げた時代です。日清・日露戦争で先祖が命をかけて手に入れた領地は、断じて守らないといけないと思っていました」

日中戦争は1937年(昭和12年)に始まっている。
戦前の日本共産党は35年、袴田の逮捕によって壊滅するが、その後も終戦までに党再建運動はいくつか動いていた。関西の話だから、これは春日庄次郎か、その周辺の者が福知山に出向いて 説得していたのだろうか?