スプートニク

ロシア(ソ連)が日本に向けて日本語で直接報道をし始めてから、今日でちょうど75年になった。その歴史は、今ご覧頂いているスプートニクのサイトともダイレクトにつながっている。おかげさまで新しい読者もどんどん増え、今までの経緯をご存知ない方も多い。この機会に、ロシアから日本における報道の歴史について振り返ってみよう。

冒頭で筆者は「直接報道」と書いたが、その歴史のほとんどはラジオであった。1929年、ソ連の通信・電信当局はドイツ語、フランス語、英語でのラジオ放送「モスクワ放送」を開始。世界初の国際ラジオ局となった。その後中国語など複数の主要言語が追加され、ついに1942年4月14日、「モスクワ放送」の日本語放送が始まった。その頃の主要な放送内容はソ連対ドイツの戦況だった。日本語放送は本来、もっと後から始まるはずだったが、1941年12月の日本によるハワイ・真珠湾攻撃のために予定が早まったと言われている。「日本がナチスドイツの側につき、ソ連と戦闘することを避けねばならない」と考えたソ連指導部は、日本への情報宣伝を一刻も早く始める必要があったのである。

日本語で放送するからには日本語の原稿も、アナウンサーも必要である。日本人初のアナウンサーになったのは福岡県出身の元炭鉱労働者、緒方重臣さん。彼は自ら「ムヘンシャン」という通り名を名乗っており、職場の仲間は彼の本名を知らなかったという。スターリン時代は身の安全のため、本名を隠して働くことは珍しくなかった。彼の呼び名の由来や数奇な運命については、こちらの番組をお聴きいただきたい。ニュース原稿をロシア語から日本語に訳していたのは野坂龍さん。彼女は後に日本共産党議長となる野坂参三氏の妻で、当時はモスクワにあるホテルに滞在していた 

リンク先にあるが、緒方重臣氏はクートベ出身だが、共産党員であったことは一度もないとは驚いた。野坂龍も当時モスクワ一流のホテルに滞在していたが時期が時期だけに暖房も十分ではなく毛布をかぶって翻訳していたとか当時の苦労がしのばれる。

 スプートニクの日本語放送も何度もなくなる危機を迎えたが生きながらえてきたとか。





ということでおっさんたちは、これでも買ってモスクワからの短波をきいていた頃を懐かしもうw
ちなみの当時のぼくちんの愛機はソニーのICF-6800 。これをtwitterに書いたら「このブルジョアめ!」とボコられたw・・・確かに友人知人の中では一番高価なマシンですた。