社民党から参議院東京選挙区から出るということで話題沸騰な増山麗奈タンのおじいさんが元共産党員と言うことで調べてみた。塩田庄兵衛編「日本社会運動人物事典」の増山直太郎の項の要約

1907〜66
富山市稲荷町生まれ。旧姓は不明だが増山家に養子入りしている。富山商業高校卒業後、26年早稲田高等学院2年在学中に軍教反対闘争に参加して退学になっている。建設者同盟(東大新人会に並ぶ青年組織で建設業者の会ではない)にも参加。27年全農富山県書記となり28年に執行委員・・・この頃千里村事件で逮捕されている。
31年共産党富山県委員会結成時に県委員・組織部長になったが三ヶ月で逮捕。36年出獄後全農新潟県連書記に、後富山県連書記長となったが応召されてどこかの戦地へ・・・
戦後、社会党富山県連の創立に参加して常任執行委員や書記長を歴任。のち新潟でも活動した。66年死去。

ということで新潟・富山で活動した農民運動畑の人で、中央で活躍した人ではない。中央での活動は学生時代の建設者同盟入りがあるが、建設者同盟は26年に解散しているからそれほど活動できていたとも思えない。

中央にいなかったと言っても新潟・富山の農民運動家であるから、特高以前に豪雪と吹雪の猛攻に耐えて活動を続けてきた強者(つわもの)なのは間違いない。上記記述の元になっている彼の追悼文集のタイトルが「風雪」なのに象徴されるように、今と違ってクルマもバイクもない時代、雪や風と戦わざるを得なかったオルグ活動は中央の者には計り知れないほど熾烈だったろう。早く亡くなったのも、その関係かも知れない。

しかし1922年、共産党結党時に15歳でまだ富山商業高校にいたのに結党に参加したとするのは疑問があるし、少なくとも設立メンバーとは認められていない。

富山県連設立に参加したのを社会党中央の設立に参加したかのごとき言うのも疑問が残る。もっとも、冨山・新潟では知られた農民運動の重鎮であるから、数百名に上った日本社会党結成に向けた懇談会の招待状は届いていただろうし、結党大会に参加もしていただろう。数百人の1人として結党に参加と言っても間違いではないが、浅沼稲治郎のように設立準備委員になってたわけでもなかろう。

通常、設立に参加と言うと、発起人や設立準備委員になることを言うと思う。もちろん富山県連の設立準備に参加していたのは疑いようがない。

ちなみに麗奈タンは72年生まれなので、祖父との面識はない。

てかね、社民党はちゃんと調べて発表してる?