【我々の政治的課題−1】
 「学ぶ気があれば、学ぶであろう」と、日本共産党にはレーニンの有名な言葉を贈るとして、でも余り期待できそうにないことも書いておくとして、日本共産党について言及することはおしまいとします。左翼議会主義政党である社民党は今や、良い意味でも悪い意味でも大衆追従政党になっていて、「クラゲ骨なし」としか思えず、取り上げる価値があるようには思えません。

 このような状況で、特段政党政治に絶望している我々は、何が出来るのでしょうか。世界の大衆運動などを参考に考えていこうと思います。先に出てきたことの繰り返しがいくつかありますが、お許しください。

 まず、ラカンドンの密林のサパティスタ。これを日本流に翻訳しますと、地域での経済循環、地方自治への参加ということになると思います。こういう取組みは、住民運動という形で発展しているというふうに考えています。各種ボランティア活動もそういうものでしょう。但し、サパティスタが国家権力と対峙しているような形での対峙は、日本では特段要らないと思います。行政、国家に住民の運動を支援させるためには、NPO化などの方法があります。野球バカという小生の属性的には、野球の独立リーグチームのいくつかがNPOになっていることに関心があります。例えば、兵庫ブルーサンダーズというチームは、NPO化して、行政や地域の企業などを巻き込んだ活動を行なっていますし、そこにはボランティアが参加しています。スポーツというのはこういう動きのきっかけとして面白いですね。Jリーグの百年構想にも、同様の動きを感じます。(愛媛FCくらいしか、具体的には分かりませんが。)

 次に、オキュパイ運動。これは先進諸国で闘われていますね。ここで見るべきは、民主的討議のあり方だと思います。日本における運動の集会の殆どは、壇上に「エライ人」がいて、その中の何人かが「大衆」に話をし、決議をし、そしてデモ・・・という形です。大衆側から壇上に何かが言われるとすれば、それは野次という形にならざるを得ません。そして、共産党系だけの集会で、野次を飛ばせば、暴力的恫喝が加えられます。こういう形の「集会」のどこに、民主主義があるというのでしょうか? オキュパイ運動はそうではありません。様々な課題について、その道の専門家を交えて、大衆が討議をします。そして、なすべき方針が大衆と専門家によって出されます。勿論、今のままでは行動に反映出来る道筋は不透明であります。だが、そこに議員や官僚がいれば、どうなるでしょう?
(続)