【日本共産党の陥った罠−2】


 天皇制打倒という綱領は何度か書き換えられる機会が戦前にもあったようです。だが、そのたびに、ソ連からの指導という名の命令により、止められました。今の日本共産党をも呪縛する三二年テーゼでは、まさに天皇制をツァーリズムと同じ絶対主義的なシステムとして措定しました。それがどれだけ、現実と合わないかは昭和史を少し紐解けば分かるのですが……。ともあれ、そのような日本共産党でしたが、純粋な若者の党であったこの党は、多数の有能な若者を内部に取り込みました。文芸評論の世界で輝ける人物であった宮本顕治、後に財界四天王と称される水野成夫など。彼らは多少の疑問を感じつつも、共産党を、共産革命を信じて活動しました。


 だが、革命運動とは残酷なものです。現実を突き付けます。日本の革命運動の主体は労働者や農民などの大衆です。権力の外側に彼らの組織を作るということは、彼らの意識に即しなければなりません。現実に立脚するとはそういうことです。エンゲルスはどこかで言いました。「革命運動には三つの面がある、労働運動、政治運動、そしてイデオロギー闘争」と。肝心なのはイデオロギー闘争です。というのは、考え方がしっかりしていないと、他の運動の展望を作れないからです。その肝心な部分がソ連製で、日本の実情を考慮していたとは思えませんでした。


 そのような大衆の意識からかい離した運動方針が大衆の間で通用するはずがありません。誠実な党員の中には、大衆の意識との乖離の本質である天皇制とぶつかることになります。日本の歴史と切断されたコミンテルン(国際共産党)由来の綱領は正しいとは思えない、と。こうして、現実と向き合う誠実な党員たちこそが転向していきます。転向しなかったものは、転向できなかっただけだと思います。例えば、獄中非転向の宮本顕治は、転向問題に直面する暇もなかったようですし(裁判闘争)、徳田球一ら若すぎる幹部たちは現場での活動経験に乏しすぎ、この問題に直面するレベルにさえなかった、など。


 こうして、転向と厳しい弾圧に晒された戦前日本共産党は半ば自滅していきました。権力によって、ソ連(コミンテルン)によって!


 戦後、日本共産党は「獄中非転向で戦争に反対した輝かしい歴史を有する政党」ということで、権威があり、終戦直後には人気もありました。非転向組を中心に、野坂参三らの海外帰国組も加わって。だが、体質を強く改め——すなわち歴史的な反省をする——ている時間はありませんでした。終戦直後の共産党人気はかなり強く、議席の伸びは大きいものでした。この勢いで議会を通じた平和革命という可能性を指導部が感じてもおかしくはありません。しかし、米ソが冷戦に向かう中、アメリカは共産党が政権を採ることを許すはずもなく、また、ソ連はソ連で、そんなアメリカの出方、アジアの情勢を考えていて中国と共に「平和革命は幻想だ、日本共産党は武装闘争を準備せよ」と指示します。この指示に従うべきと考える宮本顕治らの国際派、この指示を飲むことは党が血の海の中で死ぬことだと見抜いた所感派を中心に、党は分裂します。この分裂騒動はそれ自体としてとても興味深いものですが、肝心なことは、日本共産党がソ連などの権威にとても弱く、自分で考え、決める力が弱かったということです。結局、無理な武装闘争を行なった日本共産党は国民の信頼を失い、国会の議席を失いました。


(続)