【革命、そして民主主義−9】
 革命に備えるべき政党が、直接民主主義の場で鍛えられ、その成果を議会を通じて社会に反映させる。そうすると、民主主義の機能が回復する。すると、カタストロフとしての革命は遠ざかる、というわけです。それは同時に、革命の目的に近寄ることでもあります。ここに見た目の矛盾があります。しかしながら、カタストロフから遠ざかりながら、革命の成果を得ることが出来るならば、それに越したことはありません。しかし何度か書いたように、資本家階級は自らの支配の核心に労働者階級が触れることを許しませんでした。具体的には私的所有権について批判的に取り扱うことです。「その限りにおいて」議会に労働者階級の党が存在することを許しました。そして、その枠内で様々なものを獲得した多くの労働者、特に下層労働者は革命を忌避し、議会主義化=体制内化する歴史を選んだことはイギリスやドイツを例にして示した通りです。だが、多国籍企業、とりわけ金融資本の運動によるグローバリズムは体制内化という先進国の労働者の贅沢を許さなくなっています。先に、「議会に槍」と書きましたが、別の方向から金融資本は「議会に槍」を貫いています。こちらの力は、恐らくは左翼政党の槍よりも強大です。話は堂々巡りを始めてしまいました。

 結局のところ、状況を突破するには、「力」しかないことでしょう。国際的な団結、直接民主主義での闘技=討議を基礎とした革命政党の国際的な団結です。これらの繋がりは、同時的であり、全世界的でなくては意味がありません。我々は、革命のイメージを革命するところから出発するしかないように思います。果たして、暴力革命における、暴力(=強制力)をいかに世界的に担保するのか。あるいは、民主主義を階級的なヘゲモニー闘争の果てに、無限に外延させ、例えば私的所有権について労働者階級が生殺与奪の権利を握る。カタストロフを避け、結果的に革命の成果を得る。いずれにせよ、世界的な団結の力だけが、事を可能にすることでしょう。

 革命政党は、一見革命を防ぐために、民主主義のため、ブルジョア議会を守るために闘います。だがそれは、ありうるべきカタストロフのために、大衆の信認を得るためとも言えます。それは大衆の「力」を引き出し、集中するためと言えます。一言で言えば、「革命のための改良」となります。

 このように考えれば、たった一つの「ひっくり返し」で日本共産党には——共産党に限らないと言えますが、特に日本共産党には——大きな可能性があると言えます。それを説明するには、日本共産党の陥った歴史的な罠について触れないわけにはいきません。