【革命、そして民主主義−1】
 ちょっとまとめましょう。政治革命は、旧体制の完全な行き詰まりという条件のもとで起こります。レーニンは「被支配者がもう嫌だと思うだけでは不十分で、支配者がもう駄目だと思わなければならない」と、(政治)革命の条件を述べています。そして政治革命は、新たな理念を実現する傾向を持ちます。しかし大衆は新たな理念を体現しているわけではありません。多くは古い意識と行動様式を抱えています。それは往々にして、新体制の理念とぶつかります。そして、権力奪取後の革命政権というものは権力基盤——それは大衆のイデオロギー状況も含む——が脆弱なので、古きモノゴトに対して暴力的に対峙するものです。反動的傾向を示した大衆、場合によっては革命の指導部さえも、生贄に供されることは革命の論理に従ったものと言えます。そして恐ろしいのは「革命の理念」を決定する者は、独裁者であったり、大衆の熱狂であったり、要は、事前には予知できないところです。理性主義は、革命の中ではタテマエに過ぎません。

 すなわち政治革命という変革方法は、不安定ゆえにむき出しの暴力によって、しかも理性ではなく情念によって支配されるものだ、ということです。歴史を少しでも理解しているならば、政治革命が起きるということ、ましてや起こすということは、大変恐ろしいことであり、無理やり起こすことは傲慢なことだと感じることでしょう。では、革命は悲惨だから、避けなければならないのでしょうか? それも別の傲慢だと思います。

 というのは繰り返しになりますが、政治革命は旧体制の全般的崩壊という条件の下で起こるもので、それは革命を意図する側の問題ではないからです。革命の責任は、旧体制の側に殆どあります。「内部」がしっかりしていれば、多少の危機があっても崩壊するものではありません。また、根本的な変革が必要なことを自覚した場合、流血の惨事を防いで変革した封建体制もありました。デンマークのブルジョア革命、あるいは先に見たイギリスの変容が挙げられるでしょう。但し、どちらにしても、暴力的行為を引き起こすことの重大な結果を見越したもので、背景に暴力が全くなかったわけではありません。そして今は民主主義が先進国のルールとして定着しています。

 ドイツやイギリスの社会主義者を体制内化した仕掛けこそが民主主義です。民主主義は革命に至る全般的危機を防ぐ仕掛けであると小生は考えています。例えば資本主義の仕組みが資本家階級に有利であることは当たり前のことです。だから、資本主義体制の「外部」に位置する可能性の高い組合活動家や労働者階級の政党のメンバーが「外部」で団結して資本家階級に向き合うのも当然のことです。労働者階級が根本的に社会を変えようとするとき、革命という手段を選ぼうとするのも当然でしょう。

 革命の持つ破壊力を体制内に吸収し、体制を改良する。民主主義は革命を防ぐとともに、革命が目的とするものを、体制が飲まなければならないとすれば、吸収します。そういうものとしてあると思います。

 だから、「民主主義的手法による革命」という言葉は、そもそもは形容矛盾です。であると同時に、革命による成果は民主主義の目的とも言えます。

 ならば、民主主義でコト足れりと出来るのでしょうか。先ほどの脱刀散髪の話に戻りたいと思います。
(続)