【ロシアの社会主義運動−11】
『共産党宣言』に描かれた革命論は、「下部構造の発展により上部構造が適合的でなくなり、爆破される」というものでした。しかし人類最初の社会主義革命とされるロシア革命は、資本主義が成熟する以前に、ツァーリズムという強大な封建主義がトップの無能と戦争への対応を誤ったために自壊した状況で起きました。レーニンはそれを「帝国主義の再弱の環」で起こったといい——この時代のロシアはレーニンの『帝国主義論』における帝国の定義と異なっていると思います——、多くの知識人は「資本論(マルクス主義)に反する革命」と言いました。
マルクス主義者に指導されながら、マルクスの予言とは異なった革命、それがロシア革命だったと小生は思います。そのことはレーニンの天才を示すと同時に、革命の困難さを示すことであったと小生は思います。
まず、レーニンが心まで獲得出来た大衆は、都市部の労働者と兵士だけでした。権力に至る過程で、四月テーゼという労働者・兵士の潜在的な欲望に道筋を与えたレーニンは天才だったと思います。しかし、農民にとっての革命家は右派を含む社会革命党の党員でした。そしてロシアにおいては、労働者は少数派で農民こそが多数派でした。十月革命後、状況によって押し付けられたとも言え、その状況を利用したとも言える戦時共産主義は農民を敵視する政策でもありました。そして農村との紐帯が完全に切れたとも言えない多数の労働者にとっても、ボリシェヴィキの政策は恐ろしく非人間的なものに見えたことでしょう。
トロツキーはどこかで「社会の仕組みは比較的簡単に変えることができるが、人の心はのろのろとしか変わらないものだ」と言いました。革命的労働者と自称していようが、革命家と言おうが、長年続いた下部構造に対応した意識が簡単に変わるはずがありません。例えば、ブルジョア社会に適応するための、ブルジョア的な意識。この時代のロシアの場合はツァーリズムの中で生きていくための意識。様々の「遅れた」意識。それらは根拠のないことではないのです。
政治革命が起こってシステムが変わったとしても、反動的な意識はしばらくは反動的なままですし、生れてから馴染んできた反動的なあり方を革命的なあり方よりも好む人もいるでしょう。ただ、革命で得られたシステムというものは大抵不安定なもので、それを埋め合わせるように理想が掲げられます。そして、その理想についていけない人間には、革命前とは別の意味での抑圧が必要なものです。ツァーリズムを打倒した後、社会主義革命にまで突き進んだロシアは、時間を掛けて熟成すべき意識が欠落した状態でした。そして、生命のやり取りが社会主義者のみならず、反動家、自由主義者の間で行われていました。いや、農村の状況を見れば、農民や地主らの間ででも、です。
政治革命は理念を必要とすると小生は思います。そして、その理念が新時代の新たな約束、あるいは社会契約になるのです。しかし、大衆の意識の成熟がなければ、不安定な約束になるでしょうし、その約束と対立する旧来の約束に従うならば、抑圧が必要な場合もあるでしょう。ここは、日本の明治維新のことを考えましょう。武士は廃止されましたが、脱刀に従わない人が街を闊歩すれば? 銃刀法違反で逮捕されることでしょう。これくらいならまだましなのですが。ロシア革命の後の戦時共産主義の下で、商売に精を出せば、資本主義の復活を企てたものとして処刑の危険がありました。
(続)