【ロシアの社会主義運動−10】

 レーニンの革命について改めてまとめたいと思います。レーニンの党組織論は『なにをなすべきか(なになす)』で記されています。彼は、党を職業革命家の組織としました。これは、党を国家権力の完全な外部に置くという発想に基づいたものだと思います。議会に参加したのは、あくまでも「外部はある」と大衆に訴えるためでした。しかし、ここで難しい問題があります。ドイツやイギリスの歴史で書いたように、労働者は国家権力の内部そのものではないにせよ、国家権力の庇護の下にある資本家の運営する企業・工場の中で働いている、すなわち、内部にきわめて近いところにいる、という問題です。労働者が体制内化する根拠はここにあると小生は思います。だから、レーニンが「労働者の運動は、「外部」からの働きかけがなければ経済運動に終始する」という『なになす』における指摘は当然の指摘だと小生は思います。と、同時に、マルクスが言ったように――正確には、マルクスが第一インターの宣言でバクーニンらに飲まされた?――「労働者解放の事業は、労働者階級自身によってなされなければならない」のも事実です。昔から天は自ら助けるものを助けると言うじゃありませんか。一見矛盾しているようですが、「外部」からの働きかけにより労働者階級が自らの使命を自覚し、能動的に動くこと。そういう認識〜行為論が、ボリシェヴィキの基本になったと小生は思います。この時代の「外部」は、インテリたちによって認識された社会科学であったと言えましょう。さて、現在では?は、最後の最後に触れたいと思います。

 

 先にも触れましたが、レーニンの組織論は必ずしも党を大きくしませんでした。むしろライバルのメンシェヴィキの緩い組織論が有効に思えました。しかし、革命がいざ始まると、残酷な現実がむき出しになり、「大衆の隠された欲望」を引出し、答えることに成功したレーニンの党が主導権を得ることになります。但し、一九一七年二月から一〇月に至る過程の特殊性というものにも目を向けなければなりません。二月革命の段階で、国家権力の「内部」は瓦解していたということです。今や反革命として語られるコルニーロフやケレンスキーは、革命側にいたのです。中途半端で、古いものに妥協的な「外部」が、国家権力を握っているようでしたが、それは見せかけに過ぎませんでした。その状況はよく「真空」に例えられます。「神は真空を嫌う」という格言があります。自然において真空は空気などの流入によって破壊されます。むき出しの<力>が支配する時代、大衆の欲望に沿い、引出し、束ねることに成功した男がレーニンであり、ボリシェヴィキであったということです。レーニンその人は、「内部」を破壊して「新たな内部」たる「外部」であったとは言えません。見せかけで無力な「内部」という名の真空を埋めた「外部」であったと言えるでしょう。

 

 そしてその「外部」が新たな「内部」として固定される道は、血みどろの道でした。様々な無理解、見込み違い、古いものの強固さ。特に古いものの強固さにおののかないわけにはいきません。レーニンは「共産主義者も一皮剥けば俗物だ」と言いました。誰でも一皮剥けば俗物だと思います。しかし、俗物性を革命の時代にむき出しにすれば、命を落としかねません。否、もっと言えば、人間臭ければ危ないのです。そろそろ革命のもつ本当の恐ろしさについて書くべきときが来ました。(続)