【ロシアの社会主義運動−1】

 19世紀末のロシアは、ツァーリと呼ばれる皇帝が専制主義で支配する王国でした。皇帝の意図で全てが決まる政治システムと言い換えてもいいでしょう。皇帝が、エカテリーナ二世のように英明であれば問題ありませんが、そうじゃなければ悲惨です。とはいえ、根っからの馬鹿が皇帝になることは稀ですが。ロシアの場合は、フランス革命、統一ドイツの誕生、イギリス議会政治発足という近代化の流れから遅れていました。19世紀中ごろには神に祝福された王権に基づく王国、という古い統治機構が残され、西欧に起こってきた自由主義に触れた、貴族を中心とするインテリは——ナロードニキと言われます——弾圧されていました。それだけなら未だしも、ロシアの圧倒的多数を占める農民は、自分たちの属する共同体(ミール)の外から、皇帝様と神様が守ってくれると信じ、インテリたちの言う自由などを求めていませんでした。正確には、人民のために、自由を広めようとしたインテリたちは、農民たちに嫌われ、排除されたのでした。しかし。自由主義は資本主義の成長期のイデオロギーとも言え、レーニンが生れた頃は遅ればせながらも外資などにより工場が出来、貧乏な農民の中からは職を求めて工場街=都市に流れ込む人が出始めていました。彼らは農民的考えを残しつつも、労働者としての考えも身に着けるようになりました。ロシアにも資本家と労働者が生まれ、自由への要求は高まるとともに、それまで農民の解放を考えていたナロードニキの中には、労働者に注目する一団が現れました。彼らの中で、西欧のマルクス主義に触れ、労働者こそがロシアを変える主体であると信じる一団が生まれました。プレハーノフ、ストルーヴェなどがレーニンに先行する社会主義者として知られますが、ストルーヴェはマルクス主義をロシアのブルジョア的な意味での近代化に利用するというスタンスでしたので、マルクス主義者と言えるのかどうか、疑問があります。

 

 さて。労働者階級が形成されつつあると雖も、多くの農民はツァーリに支持を与え、苛烈な弾圧が可能な状況であり、革命を意図する政治団体は処刑を含めた強い弾圧に晒されていました。自由に憧れるインテリたちは、社会主義者であっても、せめて党の中では自由で、緩い規律であってほしいと願いましたが、レーニンは、そんなことでは弾圧されたらひとたまりもないと考えました。鉄の規律を持った党——党費を納めること、全国政治新聞=機関誌を購読・販売すること、党活動(会議)に参加すること——を要求しました。実は、どれも命がけのことでした。「党の中では自由」というインテリの願いは、西欧マルクス主義の党の中では当たり前のことでしたが、ロシアでは無理筋だったと思います。19世紀末に出来たロシア社会民主労働者党は、レーニンの提案を巡って二つの分派に分かれました。レーニンの規律を是とするボリシェヴィキと、それに反対したマールトフをトップとするメンシェヴィキに。レーニンの党は革命家集団、マールトフの党は労働者大衆やインテリに開かれた集団となりました。では、レーニンの党が革命をやったから、レーニンの党が正しかったと言えるかと言えば、必ずしもそうは言えない、というのが歴史の皮肉なところです。名前は「多数派」を意味するボリシェヴィキですが、これは当時の機関誌「イースクラ」の編集部の多数を占めた——それも決して褒められたものではない権謀術数によって——からそういわれただけで、党派としてはメンシェヴィキのほうが多数のメンバーを擁していました。また、弾圧を喰らっても、レーニンの思惑とは違い、ボリシェヴィキは中々復活しないのに、メンシェヴィキは比較的早く復活し、結果としてメンバーや支持者はメンシェヴィキのほうが多くなりました。

 

 では、メンシェヴィキが正しかったのでしょうか。もし、革命ということがなければ、そうであったかも知れません。しかし、歴史の示すところによれば、やっぱりロシアではレーニンが正しかったようです。

 

 そうです。第一次世界大戦がロシアも飲み込みます。

(続)