【イギリス、ドイツの社会主義運動−5】

 一九一二年の帝国議会において、ドイツ社会民主党は第一党となっていました。但し、397議席中110議席であり、主導権を握るには至らなかったようです。そうではありましたが、支配的な階級の齎す国家イデオロギーは党員や議員に浸透していました。議員は国家権力を分与されることにより、国家に対する責任感を有するようになります。そのような状況で、マルクスによって「世界反動の砦」であるロシアと戦争状態になります。先ほど、逆説的に「労働者は祖国を持つべし」と書きましたが、社会民主党の、特に労働者上がりの国会議員にとって、ドイツ国家はすでに祖国であったように思います。ドイツ人は、権威主義的であり、統制に服しやすいことを、例えばマックス・ヴェーバーが『社会主義』で描き、警告していますが、社会民主党の多数派はこの統制の力を、「国家を守る(祖国防衛)」ために利用しました。先ほど労働者上がりは右派を形成しやすいことを指摘しましたが、労働者の党は労働者を多数派として国会に送りこんでおり、社民党はそのような党になっていました。戦争を進めるには、戦費が必要です。その調達のために戦時国債が発行されることになりましたが、ドイツ社会民主党は、たった二人を除いて、戦時国債に賛成しました。既に、ドイツの労働者の党は、植民地支配に賛成しているという、左翼の原理原則から言えば犯罪的なことに手を染めていましたが、今度は戦争に賛成したのです。党は戦時国債に賛成するように、議員に要請していたのです。その背景には、労働者大衆の戦争に対する熱狂・支持がありました。

 

 反対した社会民主党の国会議員は、前に挙げたローザ・ルクセンブルグと、カール・リープクネヒトという左派二人だけでした。これは、反党行為です。党を牛耳っていた右派は「党の統一を乱した」と激怒します。リープクネヒトは除名され、戦争時に「兵役拒否を扇動した」との理由で投獄されていたルクセンブルグは獄中から指令・指導を発し、スパルタクス団という党内分派(左翼組織)を作ります。後にこれはドイツ共産党となります。ちなみに、法王・カウツキーは党の統一を確保するために右派と左派の間を取り持とうとしますが挫折、エンゲルスの一番弟子であるベルンシュタインとともに独立社民党を作り、スパルタクス団と一時は行動を共にします。独立社民党とスパルタクス団は水兵の蜂起などを指導し、「労働者・兵士評議会(レーテ)」を成立させてドイツ革命を成立させます。この成果に社民党も乗りますが、ここで重大な裏切り行為が起こります。社民党のトップ、右派のエーベルトはスパルタクスなどの左派を快く思っていませんでした。ドイツ革命により、ドイツは敗戦国となっていましたから。彼は国家主義者や右翼の間で義勇軍を募り、法の秩序の回復という名目で、急進左派であるスパルタクス団の大虐殺を行ないます。それらは、社民党の作った法律により、「合法的に」行われました。この行為に、先ほど名前を出したヴェーバーも賛意を示します。小生が思うに、革命時に旧態依然とした「秩序」に与することは、反革命に与することに他なりません。それ故に、社会学の開祖であるマックス・ヴェーバーに対する左翼の評価は必ずしも良いものではありません。ともあれ、ドイツ革命とその挫折には、学ぶべき教訓が多数あると思います。革命は、正統性などに縛られてとどまるならば反革命により血の海に沈められること、労働者大衆は、革命的情勢にあるからと言って、必ずしも革命側に組するわけではないこと、社会主義は国家主義と馴染みやすい危険があること。繰り返しになりますが、革命とは、暴力という名の鉄の法則に縛られるものであり、暴力の担保なくしては貫徹できないのです。

 

 これらの教訓を、先取りしていたかのような天才が、一八七〇年、ロシアに生まれていました。ウラジーミル・イリーイッチ・ウリヤーノフ、通称レーニンです。

(続)