システムの都合で細切れにアップされたTAMO2師匠の日本共産党略史を1エントリにまとめてアップ。

さてさて。ケルンパー チョーシュー(薩摩長州)さんとか、ここの管理人さんとかには馬に念仏ですが、結局生き残った大手左翼組織ってのは、工場システムを模倣しているわけですよね。第二インターが祖先です。

左翼ってのも色々な考えがありますが、大抵の左翼は理想としては無政府的なものです。たとえば、レーニンの国家と革命なんか。(無政府主義者と論戦しているのは方法に関してで理想に関してではないです。)

しかし、無政府的な分散性と自然発生性では国家を利用できるブルジョアジーに勝利できない。力の結集が必要だ! ということで、党をプロレタリアート(の側の人)は要求します。

さて、党に結集したのはいいが、どのように運営するかというのが問題になります。日本ではアナ・ボル論争ってのがありました。

アナ(大杉栄とか)「会社組織内では自由がない、それに対抗する党ってのは、自由が一番で、労働者の自前の感性こそ大事なんじゃないか。統制を意味する民主集中制(ボリシェヴィズム)ってのは反労働者的だ」

ボル(山川均とか)「そんな分散性に依拠して、敵の組織された権力という名の暴力装置に勝てると思っているのか。討議を通じて練りこまれた統一体としての意志の行使こそがプロレタリアの解放に到るのだ。自由はメ勝利の日までモ解放されることはない。勝利のためには、自由を返上する必要があるのだ」

(余談:軍歌好きには分かるでしょうがメ勝利の日までモという軍歌があります。軍国日本のパトスと、日本左翼のパトスは大変良く被ります)

アナキストは組織として大きくなった験しがありません。本質的に、そういうものです。馬鹿にしているのではなく、現実としてそうだ、と。戦前、組織ではボル派が大勢を占めました。そして、共産党が出来ました。民主集中制と言う名の上部統制組織論。これは時代の要請でもありました。

戦前の弾圧は無視します。終戦直後、日本共産党は 日本人、特に知識人の持つ党への疚しさから多くの支持を集めました。平和革命というのが現実化するのでは、というほどの(細かい話はやめときますね)。しかし、朝鮮戦争の足音が聞こえてくるとき、戦後世界を二分した勢力は日本共産党を挟み撃ちしました。「平和革命という幻想を抱くな、暴力革命こそ本筋であり唯一である」というコミンフォルム指令を巡って、日本共産党は大混乱。このテーゼを是(暴力革命路線=国際派)と、それを否定する党中央(=所感派)に割れました。
 このような大きすぎる分裂は、討議を通じて云々という建前のもとの上部統制組織論でどうすることも出来ません。党は割れました。逆の極端から逆の極端へ。党中央(どうみても、こちらが正統派で、日本共産党史は事実を歪曲しています)は武装闘争を行いました。それは、指令を出した側(スターリン)の意向を受けた、朝鮮戦争の後部かく乱でした。民主集中制はここで一旦崩壊します。しかし、それはまだ日本共産党内部の、党固有の問題であります。

とはいえ、これが残した傷は左翼の世界では甚大でした。共産党への唯一神的信頼は崩壊しました。結果的に正しかった国際派という分派が正統派である所感派をメ許すモ形で共産党は再統合されましたが、真面目に武装方針を信じていた若い人たちは武装解除に強く反発しました。たとえば、ブントという形で分かれた部分があります。いずれにせよ、共産党的な民主集中制も共産主義への権威も崩壊したことは確かです。

 とはいえ、分裂の経緯を大半の党員は知っていたし、何より当時の党員は知性を大事にし、主体を大事にする人が多かったと聞いております。何が言いたいかというと、原理的な部分で対立し、党を分かち合った人たちと雖も、大枠で仲間であると党員たちは認識していたので、交流し、討議する関係があったということです。

 党内においても、外部の影響を公然と受けて活動する部分がありました。有名な構造改革派を巡るお話は、そういう交流の実例です。ソ連に倣ったわけではないでしょうが、日本共産党内部にも自由の風が吹きました。

 しかし、再建した共産党の中心は、徹底した組織第一主義者=宮本顕治でした。彼は個人では非常に人間臭い、人情家であったことは例えば当時袂を分かった中野重治の回想録にもあります。しかし、彼は党のトップとして、彼の理念の党=結晶のように純化した一枚岩の党を構想し、構築します。結晶のような党に夾雑物が混入すると、確かに壊れます。「叛乱の芽は双葉のうちに摘み取らねばならない」。彼にあっては、可能性という形で現われる党(員)の<生>は、叛乱の芽であったようです。

 以後、構造改革派も、中国シンパも、先鋭的で最も優秀だったと思われる新日和見主義分子も、全て党から放逐されます。その動きは止まることはありませんでした。小生の年代ならば、イリイチ事件が。

 こうして、日本共産党は出がらしのような、党のロボットでないと生き残れない、残りかすのような党に成り果てました。今や支持率は2%程度です。ただ、このような悲惨事――トップの意向を予めインボルブした考え方をしない人間は排除される――は、日本共産党に限ったことではありません。むしろ、日本共産党と闘った部分と共通する病でした。それは、ニーチェの言う怪物の弁証法のためだったのかも知れません。あるいは、時代の病だったのかもしれません。連合傘下の労働組合は皮肉にも「ボリシェヴィキ選挙」と言われる、組合幹部が推挙した人間以外は立候補さえ出来ないシステムとなりました。企業においては「工場の面前で民主主義は立ちすくむ」と言われました。

 しかししかし、このようなことはフォーディズムという名の、労働の軍隊化が極限まで進んだ生産様式の時代のお話でした。1970年代からのME化、1990年代のIT化は労働の変容を齎しました。堺屋太一の言う「知価革命」は、A.ネグリの言うところの コニカリアート(知的生産を行う膨大な「労働」者層) を生み出しました。フォーディズムそのものは生産の中心に見えつつも、しかし、それが価値を生み出すにはコニカリアートの労働を通じてでなければ競争に勝てない時代となりました。コニカリアートは上から言われたことをする「ロボットのような」労働者では価値がありません。色々な意味で自由で、提案型で、思いがけない結びつきを齎す。ピラミッド型の組織に馴染む生き物ではありません。往々にして、企業という枠なんぞ平気で飛び越えてしまいます。

 勿論、コニカリアートが現在労働者の主軸であると言っているのではありません。しかし、中心点がそっちに移動していっているのは、工場勤務者として実感しております。

 今、共産党は大きなチャンスに巡り合おうとしています。コニカリアートの周辺には、彼らをも包摂するプレカリアートがいます。彼らもまた、マルクスが資本論で言った「二重の意味での自由」を再度獲得、いや、押し付けられています。彼らは会社や旧来の企業内労組とのしがらみがありません。コニカリアートやプレカリアート(合わせてマルチチュード)を獲得するのです。しかし、そのためには、まず、党自身が、フォーディズムに照応した組織を改めなければ、彼らを獲得することは出来ないでしょう。古い、余りにも古い闘争形態だからです。そのためには、党内は「自由」であるべきだし、徹底的に民主的でフラットな組織でなければなりません。
 党組織は、その時代の生産様式に照応します。ならば、従来の民主集中制ではマルチチュードの時代に対応できないと思います。なぜならば、民主集中制は大工場生産様式に対応したものですから。

 先鋭的で自覚的な共産党員はこのことに気づいていました。少なくとも、ネットが大衆化した1990年代後半には。JCP−Watchという伝説のサイトがありました。残念ながら、消失していますが。

 以上、出版物である『未来派左翼』『素描 1960年代』を思い出しながら、真面目な東西南北さんのために共産党を巡る歴史と展望を書いてみました。共産党を支持されるのはいいですが、今の共産党に余り多くを期待してはいけませんよ。まあ、ちょっと突き放しておられるから大丈夫でしょうが。

あと、busayo_dicさんに怒られるので(謎)、以下のビジネス書も参考に挙げておこうかな。

イノベーションのジレンマ―技術革新が巨大企業を滅ぼすとき

ザ・ワーク・オブ・ネーションズ―21世紀資本主義のイメージ


管理人追記
これも挙げておこう。
藁のハンドル (中公文庫―BIBLIO20世紀)


組織は戦略に従う

戦略サファリ―戦略マネジメント・ガイドブック (Best solution)

セムラーイズム 全員参加の経営革命 (SB文庫)
フランス革命史〈上〉 (中公文庫)