本日掲載されたミヤケンこと宮本顕治氏の追悼記事、しんぶん赤旗は手抜きをしているので、少々追加いたします。

 一九〇八年(明治四十一年)山口県熊毛郡光井村(現在の光市)生まれ。愛媛県の松山高校を経て東京大学経済学部に入学。二九年二十歳のとき、雑誌『改造』の懸賞論文に応募した文芸評論「『敗北』の文学――芥川龍之介氏の文学について」が一等に入賞しました。

なんですが、昨日のエントリに書いたように、盗作疑惑が根強く残っています。

 三一年五月入党。三二年作家の中条百合子と結婚。三三年に二十四歳の若さで党の中央委員になりました。同年十二月、党に潜入していたスパイの手引きによって特高警察に検挙されます。

ここでスパイとされている人は、荻野増治という、当時の東京市委員会キャップだった人ですが、いわゆる大泉・小畑査問(スパイと疑われた小畑氏がミヤケンらのリンチで死んじゃった事件)を聞き、自首して宮本と会うことをしゃべったんですね。

自首した理由と言うのも、上野の喫茶店に打ち合わせに行ったら、宮本含む他のメンバーの態度がおかしいと気がついて、自分もスパイと疑われている→殺される→自首した方がマシと判断してのことだったようです。殺されたくなくて自首した人のことを、共産党ではスパイと言うのを説明しないと誤解を招きますね。
特高警察は日本共産党の名誉を失墜させるため、さまざまな事件を仕立て上げ、デマ宣伝を繰り広げました。これにたいし、宮本氏は、獄中という困難な条件 下で、日本共産党の名誉を将来にわたり守り抜くために全力をあげ、法廷では事実を解き明かして、デマ宣伝を打ち破りました。戦時下の暗黒裁判は、宮本氏に たいし、治安維持法違反を主とした無期懲役の判決を下しましたが、戦後、この判決は取り消されました。

さまざまな事件と言うのは、党資金を得るために銀行強盗やったとかでしようか?あれは、党のために犯罪者の汚名を着て死ぬこと(党のためにやったとは口が割けても言わない)を覚悟した面々の仕事で、党はしらばっくれる予定でしたのでこれでよかったのですねw

そして「治安維持法違反を主」なんて省略したら失礼です。ちゃんと「治安維持法違反殺人同未遂死体遺棄不法監禁銃砲火薬類取締法施行規則違反」(判決より引用)によって無期懲役に処せられたのだと書かないといけません。

 宮本氏は戦後すぐ党再建活動に参加、日本共産党をきわめて困難な状況に陥れたいわゆる「五〇年問題」では、その解決の先頭に立ちました。これはソ 連のスターリンが革命直後の中国共産党の毛沢東指導部と組んで中国方式の武装闘争路線を日本共産党におしつけようとして企てた干渉作戦でした。

 この干渉のなかで党は分裂し、分裂した一方の側=徳田・野坂分派はスターリンの直接指導のもと北京に拠点をおいて、軍事方針とよばれる極左冒険主 義の方針を日本に持ち込みます。徳田・野坂の分裂的行動に反対すると同時に、彼らが持ち込んだ武装闘争方針に真っ向から反対するたたかいの先頭に立ったの が宮本氏でした。

おやおや、ヘタレ党員が決して認めなかった、日本共産党の武装闘争路線の時代をお認めになったのですねw。しかも、武装闘争路線を放棄した六全協以後も、分派の野坂が宮本氏の上司(議長)だった時代もありました。

戦前からコミンテルンの指導と資金援助があったのは、今回も知らんふりでしょうかw?

 六〇年代には、ソ連共産党と中国共産党の毛沢東派から、それぞれ日本共産党を自分たちの支配下におこうとする覇権主義的干渉を受けました。これにたいし、日本共産党は、宮本氏を先頭に大論争をおこなって、これらの干渉をはねのけました。

うん、これはその通り、でもなんで、もはや歴史用語の一つともなっている宮本の「自主独立路線」の文字が見えないのでしょう?

しんぶん赤旗は、党史の隠したいところを隠すだけでなく、最も評価されるべき実績までも知らなすぎじゃないですかぁw?

とまで書いてまだ半分かよ?、疲れた、もうやんぴw