日本共産党系blogの中で人気のあった「カッシーニで昼食」の作者皆川朋枝たんが、来年の京都府議会選挙に立候補することになった。本人いわく
旧ブログであんなに共産党批判をしていましたが、そこを見初められて(?)地区委員会からお話しを頂きました。共産党のフトコロはでかいです。私の心の港はあんたや。
ということらしい。あっちこっちを見ていると、わりと好意的に見ている人が多そうだ。実際、当メンバーの中にも好意的に見ている人もいる。だが、busayo_dic@管理人は、そうした見方に与しない。彼女の共産党批判なぞ、批判のうちに入るとは思っていないし、何よりも議員と言う公的立場に立つなら、逃げ道がなくなるからだ。
当blogは、共産党系のblogの中でも有名の部類であったにもかかわらず「カッシーニで昼食」をあえて紹介してこなかった。理由は、文章から推定される線の細さ故である。宮本たけしや坂本ひろし、あるいは藤沢のり子のような簡単に潰れそうにない鈍さを持っているなら、叩く方も安心して叩ける。しかし、線の細い人は下手に叩くわけにはいかない。
議員になることを志す“政治家”になったからには、公的な立場を持つことになる。すると、これまでのような“仲良しクラブ”だけではすまなくなるし、当方もそのように扱わせていただくことになる。
旧ブログであんなに共産党批判をしていましたが、そこを見初められて(?)地区委員会からお話しを頂きました。共産党のフトコロはでかいです。私の心の港はあんたや。
ということらしい。あっちこっちを見ていると、わりと好意的に見ている人が多そうだ。実際、当メンバーの中にも好意的に見ている人もいる。だが、busayo_dic@管理人は、そうした見方に与しない。彼女の共産党批判なぞ、批判のうちに入るとは思っていないし、何よりも議員と言う公的立場に立つなら、逃げ道がなくなるからだ。
当blogは、共産党系のblogの中でも有名の部類であったにもかかわらず「カッシーニで昼食」をあえて紹介してこなかった。理由は、文章から推定される線の細さ故である。宮本たけしや坂本ひろし、あるいは藤沢のり子のような簡単に潰れそうにない鈍さを持っているなら、叩く方も安心して叩ける。しかし、線の細い人は下手に叩くわけにはいかない。
議員になることを志す“政治家”になったからには、公的な立場を持つことになる。すると、これまでのような“仲良しクラブ”だけではすまなくなるし、当方もそのように扱わせていただくことになる。
プロガーの中には、日本共産党の地区委員会が彼女を推薦したことを変化の兆しと見る人も多い。この考えは、残念ながら甘い。
彼女が行っている共産党批判なぞ生ぬるいの一言だし、彼女がキンピー問題やクニチュウ士別市議選事件につして党中央を批判するようなら、たぶん推薦などなかったろう。
加えて、当方が彼女にいつもやっているような質問すればいったいどうなるか?共産党の根幹に触れる質問をされるとメッキがはがれた者たちを、当方はたくさん見てきたのだ。
共産党の外道ぶりを党内部で身を持って体験した、クラ氏とキンピー氏がこちらのコメントで示している見方こそが、本当に共産党を知っている者の見方である。
カッシーニたんのファンが出馬を好意的に見るなぞ、世間知らずもいいとこ。彼女のファンが、今後彼女がぶつからざるを得ないであろう政治の壁の高さを見て大丈夫だろうかと心配するのならわかる。しかし、線の細い人間は政治には向かない。
彼女の線が太くなり、海千山千のヤカラと対等に渡り合えるようになったら、おそらくファンが持っている“彼女の魅力”はなくなる。あるように見えても、それは見かけだけのものにならざるを得ない。それは共産党に限らずどこの政党に属していても同じ。政治とはそんな世界だからだ。
彼女の輝きがメッキか本物か、いずれ試しに行くことがあるだろう。その時どうなるか、読者諸兄にはご期待いただきたいものである。
彼女が行っている共産党批判なぞ生ぬるいの一言だし、彼女がキンピー問題やクニチュウ士別市議選事件につして党中央を批判するようなら、たぶん推薦などなかったろう。
加えて、当方が彼女にいつもやっているような質問すればいったいどうなるか?共産党の根幹に触れる質問をされるとメッキがはがれた者たちを、当方はたくさん見てきたのだ。
共産党の外道ぶりを党内部で身を持って体験した、クラ氏とキンピー氏がこちらのコメントで示している見方こそが、本当に共産党を知っている者の見方である。
カッシーニたんのファンが出馬を好意的に見るなぞ、世間知らずもいいとこ。彼女のファンが、今後彼女がぶつからざるを得ないであろう政治の壁の高さを見て大丈夫だろうかと心配するのならわかる。しかし、線の細い人間は政治には向かない。
彼女の線が太くなり、海千山千のヤカラと対等に渡り合えるようになったら、おそらくファンが持っている“彼女の魅力”はなくなる。あるように見えても、それは見かけだけのものにならざるを得ない。それは共産党に限らずどこの政党に属していても同じ。政治とはそんな世界だからだ。
彼女の輝きがメッキか本物か、いずれ試しに行くことがあるだろう。その時どうなるか、読者諸兄にはご期待いただきたいものである。