鷲は舞い降りた

文芸評論家たけし先生の文学カフェ、読者の皆さまのご期待通り、成功裏に終わったようでつ。いつものように、政治的に文学を利用しようとするのがバレバレでつ。ツッコミどころは満載でつが、長くなりすぎるのではしょりまつ。

「自分が自分のままであっていい」……そんなことはありません。多くの若者が、もっと立派な人間になりたいと思っていまつよ。ひきこもっている人もそう。誰が引きこもっている自分を肯定していると思っているのでつか?

もっと自分をよく見せたいと思わないなら、化粧品会社なんて要りません。もっと勉強したいと思う人がいなければ、ビジネス書なんか売れません。自分たちがそうだからといって、人まで勝手に規定されては困りまつ。

文学評論なぞ、文学なきところに存在できない寄生虫みたいなものだという謙虚さが足りないから、平気でこんなことを言えるのでしょう。評論にできるのは観察だけで、世の中を変える力なぞ最初からありません。二十世紀を代表する思想的巨人の一人、ピーター・ドラッカーですら、自身を観察者としてしか捉えず、先導するなどとは考えていなかったことなどご存じないのでしょう。

百合祭

それにしてもなんと偏狭な文学観なのでしょう。文学は多様なのでつ。障子にち●ち●突き立ててもいいし、太陽のせいで人殺しをしたって構わんのでつ。ましてやナチスドイツのシュタイナ少佐の勇姿を描いても、薄汚いジジバハの恋の暗闘を描いてもかまいません。そして何で癒され、何で社会的現実と格闘できるようになるかも自由なのでつ。ぼくちんなんか、不幸な少女が一見不幸なままで死ぬ「マッチ売りの少女」に力づけられますけど……変でしょうか?

しかし、なによりも笑い死にしそうなのは

私たちが「口から注ぎ込む」べきものとはいったい何でしょうか。

ってねぇ……傲慢にもほどがありますなぁ。注ぎ込まれなくても、我々はこんなことを平気で書く先生のような人間になってはならないと、先生の日記を見るたび自分を戒めておりまつ。これこそ、文芸評論家宮本岳志の最大の社会的貢献でございまつ。せひども、この調子で、これからも私たちを楽しませて下さい(ぺこり)