1994年7月20日、村山富市首相(社会党委員長・当時)が、衆議院本会議の代表質問に対する答弁で、自衛隊は合憲であることを明言する。
羽田新生党党首らの質問に答えたもの。自衛隊と憲法の関係について『専守防衛に徹し、自衛のための必要最小限度の実力組織である自衛隊は、憲法の認めるものであると認識する』と述べ、1955年の社会党合同以来の基本政策からの大きな転換を宣言した。
もちろんこの日の発言も、「日本国憲法の精神と理念が実現できる世界を目指し、国際協調体制の確立と軍縮の推進をはかる」という「軍縮の実現」とワンセットだったことは、付け加えておこう。自衛隊=合憲論という「土俵」にのってはじめて軍縮について語り合えるようになるというのが、村山社会党の言い分だった。
羽田新生党党首らの質問に答えたもの。自衛隊と憲法の関係について『専守防衛に徹し、自衛のための必要最小限度の実力組織である自衛隊は、憲法の認めるものであると認識する』と述べ、1955年の社会党合同以来の基本政策からの大きな転換を宣言した。
もちろんこの日の発言も、「日本国憲法の精神と理念が実現できる世界を目指し、国際協調体制の確立と軍縮の推進をはかる」という「軍縮の実現」とワンセットだったことは、付け加えておこう。自衛隊=合憲論という「土俵」にのってはじめて軍縮について語り合えるようになるというのが、村山社会党の言い分だった。
しかし、世界有数の軍備となった自衛隊の増強は、この自衛隊=合憲論によってのみ、はじめて可能となったものであった。反対に、徴兵制の禁止や海外派兵の禁止などの原則は、自衛隊=違憲論が対置されてきたからこそ、こうした「歯止め」を政府も公約せざるをえなかった。しかしこの日の自衛隊合憲発言は、「専守防衛」という建前の「歯止め」さえも、なしくずしに無意味化してしまうものだった。
当時の新聞記事を読むと、側近の談話として「連立政権の村山であって、もう社会党の村山ではない」という村山首相のことばが伝えられたりしている(「朝日」1994年7月16日夕刊)。それならばいっそのこと解党して自民党に合流してしまわなかったのだろうか? この社会党の路線転換により、護憲派をはじめとした批判勢力はうやむやのうちに内的に解体して、体制に順応していったのだし、何よりも、他国の内戦に派兵する道を開き、非戦非武装を定めた憲法九条をなし崩しに無効化してしまった。
村山首相には、自民党の政権復帰の看板にされ、その弾除けの役割を務めるしか能がなかったという、無残な印象しか残らなかった。これが社会党委員長であり、労組(自治労)の代表も務めたことがあり、かつては社会主義者でもあった人物なのかと思うほど、憲法や民主主義に対する全くの無知、全くの無能ぶりを露呈した。今も「社会民主党」を名乗る政党は存続しているが、しかし11年前のこの日をもって、社会党的なるものは、政治的・思想的な自殺を遂げた。
ここで思い返すのは、社会主義者の長老の荒畑寒村が、若き日の中核派の北小路敏をつかまえて、「革命的分子ばかり集まって、君たちは酵母党でも作るつもりか」と語ったというエピソードである(『反体制を生きて』)。新左翼は、共産党に飽き足らず飛び出したか、追い出された人々で、もとより社会党には飽き足らない人たちではある。しかし革命的な社会主義政党を作るからには、酵母(革命分子)だけではだめで、「大衆」という小麦粉が必要である(だから社会党に加入するべきだ)というのが荒畑の持論だった。
しかし70年安保の頃には、「社会党はもうダメだ」と語り、また、次々に明るみになる「社会主義」国家の蛮行に、病床で絶望しながら死んでいったという寒村の無念たるや、どれだけのものだったろう? 寒村が最後の希望を託した若き新左翼も、テロリズムのなかで自壊していった。
もちろん、この日の自衛隊=合憲発言に至る村山一人の責任ではない。石橋委員長時代の社会党が「自衛隊の違憲合法論」なるペテンを言い出した時点で(『月刊社会党』1984年1月号)、この日の村山発言のレールは敷かれていたといわなければならない。石橋委員長時代、巷では「おまえはもう死んでいる」という劇画のセリフが流行っていたものだった。すでに「脳死」状態だった社会党に、この日の村山委員長は、その生命維持装置を外したにすぎなかったのだともいえる。
生きているものは時のなかで滅んでいくが、こうした滅んでいく過程は同時に何かが結晶化してくる過程でもある。すべて歴史的に生じてきたものが朽ちていく非歴史的な場のなかでも、新しい結晶化した形や姿が生まれてきて、そのような場に抗して生き残り、真珠採りがそれを陽の目を浴びさせるのを待つのである−−。アレントのベンヤミン論の一節を引いて、社会党への葬送の言葉にかえよう。共産党については、今日は何もいわないでおくことにする。
【引用記事・参考文献】
「朝日新聞縮刷版」1994年7月16日夕刊・7月21日朝刊
『反体制を生きて』 荒畑寒村(新泉社)
当時の新聞記事を読むと、側近の談話として「連立政権の村山であって、もう社会党の村山ではない」という村山首相のことばが伝えられたりしている(「朝日」1994年7月16日夕刊)。それならばいっそのこと解党して自民党に合流してしまわなかったのだろうか? この社会党の路線転換により、護憲派をはじめとした批判勢力はうやむやのうちに内的に解体して、体制に順応していったのだし、何よりも、他国の内戦に派兵する道を開き、非戦非武装を定めた憲法九条をなし崩しに無効化してしまった。
村山首相には、自民党の政権復帰の看板にされ、その弾除けの役割を務めるしか能がなかったという、無残な印象しか残らなかった。これが社会党委員長であり、労組(自治労)の代表も務めたことがあり、かつては社会主義者でもあった人物なのかと思うほど、憲法や民主主義に対する全くの無知、全くの無能ぶりを露呈した。今も「社会民主党」を名乗る政党は存続しているが、しかし11年前のこの日をもって、社会党的なるものは、政治的・思想的な自殺を遂げた。
ここで思い返すのは、社会主義者の長老の荒畑寒村が、若き日の中核派の北小路敏をつかまえて、「革命的分子ばかり集まって、君たちは酵母党でも作るつもりか」と語ったというエピソードである(『反体制を生きて』)。新左翼は、共産党に飽き足らず飛び出したか、追い出された人々で、もとより社会党には飽き足らない人たちではある。しかし革命的な社会主義政党を作るからには、酵母(革命分子)だけではだめで、「大衆」という小麦粉が必要である(だから社会党に加入するべきだ)というのが荒畑の持論だった。
しかし70年安保の頃には、「社会党はもうダメだ」と語り、また、次々に明るみになる「社会主義」国家の蛮行に、病床で絶望しながら死んでいったという寒村の無念たるや、どれだけのものだったろう? 寒村が最後の希望を託した若き新左翼も、テロリズムのなかで自壊していった。
もちろん、この日の自衛隊=合憲発言に至る村山一人の責任ではない。石橋委員長時代の社会党が「自衛隊の違憲合法論」なるペテンを言い出した時点で(『月刊社会党』1984年1月号)、この日の村山発言のレールは敷かれていたといわなければならない。石橋委員長時代、巷では「おまえはもう死んでいる」という劇画のセリフが流行っていたものだった。すでに「脳死」状態だった社会党に、この日の村山委員長は、その生命維持装置を外したにすぎなかったのだともいえる。
生きているものは時のなかで滅んでいくが、こうした滅んでいく過程は同時に何かが結晶化してくる過程でもある。すべて歴史的に生じてきたものが朽ちていく非歴史的な場のなかでも、新しい結晶化した形や姿が生まれてきて、そのような場に抗して生き残り、真珠採りがそれを陽の目を浴びさせるのを待つのである−−。アレントのベンヤミン論の一節を引いて、社会党への葬送の言葉にかえよう。共産党については、今日は何もいわないでおくことにする。
【引用記事・参考文献】
「朝日新聞縮刷版」1994年7月16日夕刊・7月21日朝刊
『反体制を生きて』 荒畑寒村(新泉社)