1912年7月3日、新世界ルナパーク開業 。
 大阪天王寺公園の西に歓楽街「新世界」がオープン。その中心には、パリのエッフェル塔を模した通天閣が建てられた。通天閣は第2次世界大戦で火災に遭い、金属回収のため撤去されたが、1956年再建。現在の通天閣は二代目である。

 新世界と天王寺公園は、1902年に開催された第5回内国博覧会の跡地を整備したものである。

 新世界は三つのエリアに区分された。北の部分はパリをモデルにした放射線状の街路網が特色だった。そして、それぞれの通りごとに、道具屋筋、洋装店街などのショッピングモールが計画された。

 中央の街区は遊園地を中心に、映画館や芝居小屋、相撲をはじめとする見世物興行の小屋が囲い込んだ。

 南側の街区のうちの大半は、私有地として残され、のちに交通局の車庫用地として利用されている。

 ルナパークの入口は通天閣の足下にあった。入場料は5銭、黒い上着に真紅のズボン、英国の騎士の扮装をしたインド人がもぎりに立ち、話題になった。園内にはさまざまなアトラクションがあった。高さ22尺、直径36尺の円盤が上下動しながら高速回転したという「サークリング・ウェーブ」は、絶叫マシーンの先駆けだろうか? 通天閣とルナパークを結ぶ大阪で初めてのロープウェイも運行した。『大阪新名所新世界写真帖』には、「凧のごとく楽園を横断して相互間に来往す。これに搭じて空中飛行の快をむさぼる、またすこぶる妙ならずや」とある。

 初期のルナパークでもっとも人気のあったアトラクションが「不思議館」である。光学のトリックとカラクリ、そして俳優の実演をおりまぜ、豊臣秀吉が現代に蘇生するところを見せた。

 大阪にキンピー氏を訪ねたとき、初めてお会いしたのも新世界界隈だった。現在の新世界は、「新左翼」が懐古闘争趣味の対象でしかないのにも似て、ある種のレトロタウンである。ルナパークの再現をめざしたフェスティバルゲートも、完全にゴーストタウンのようだった。キンピー氏も、トレードマークだった金髪はやめている。この日、キンピー氏に聞いた話は、また何かの折に話すことにしよう。

【参考文献】
『大阪まち物語』 なにわ物語研究会編(創元社)