1934年6月30日、レーム粛清。長いナイフの夜。

【きょうのブックガイド】

いま、なぜネオナチか?―旧東ドイツの右翼ラジカリズムを中心に
 レームは1906年陸軍に入隊して、第1次世界大戦中に大尉に昇進している。1919年ドイツ労働者党 (1920年、国家社会主義ドイツ労働者党と改称) の創立に加わった。1921年SA (ナチス突撃隊) を組織、23年ミュンヘン一揆に参加して、短期間だが入獄している。

 1925年、合法路線に転換しようとしたヒトラーと対立したレームは、SA隊長を辞任、ボリビア政府軍の指導にあたっている。ヒトラーの要請で レームがSAに復帰したのは1930年のことだった。1930年から33年にかけてのナチス党の勢力拡大には、レームによるSAの組織再編と、左翼との街頭戦における勝利が大きく与っている。

 当時のSAは、失業者や青年労働者の不満を吸収し勢力を急増していた。ナチスの政権掌握がこの傾向に拍車をかけて、1934年には隊員数が300万をこえた。突撃隊幕僚長レームは、まさにナチスにおけるNo.2だったといっていい。

 レームは「ナチス革命」の徹底を求める隊員の要望にこたえ、突撃隊を国土防衛のかなめとして国家の中核に据えるようヒトラーに迫った。しかし、国防軍との協力関係を第三帝国の基軸においたヒトラーはこの要求を拒否する。すでに忠実で有能なヒトラー親衛隊を手にしていたヒトラーにとって、突撃隊は、いまや自己の立場を脅かしかねない、危険分子の集団にすぎなかった。1934年6月30日、ヒトラーはレームを反乱を企てたという容疑で逮捕、翌日に処刑した。

 このレーム粛清によって、ナチスにおけるヒトラーの独裁は名実ともに成立する。このため、レーム粛清は「ナチス第二革命」とも「6月30日事件」ともいわれることがある。政敵を一掃したヒトラーは、1934年8月2日にヒンデンブルク大統領が没すると、首相と大統領を兼任する絶大な独裁者、いわゆる「総統」の地位についた。

 ところで、どうしてナチスの台頭を防げなかったのか? このことは今でも繰り返し問われなければならない。マルチン・ニーメラー牧師の告白はよく知られている。以前も引用したが、もう一度引用してみたい。

 <ナチスが最初に攻撃したのは共産主義者だった。次は社会主義者だった。それからナチスは学校、新聞、ユダヤ人等をどんどん攻撃し、最後には教会を攻撃した。自分は牧師であったからたって行動にでたが、そのときはすでにおそかった>

 いま、左翼や反戦運動に対する様々な弾圧事件が続いている。心ある人々には、このニーメラー牧師の言葉だけは、ぜひ覚えておいていただきたい。

 と、その上でいうのだが、このニーメラー牧師の言葉は、当時のドイツの共産主義者を、あまりにも美化して、過大評価しているのではないのだろうか? ナチスは共産党を最初に攻撃した。なぜだろう。青年労働者や失業者など、支持者が重なり合っていたからである。もちろん共産党も負けていなかった。1923年5月に開催されたある学生集会で、共産党中央委員ルート・フィッシャーは、<国家社会主義者>の若者たちに次のように呼びかけている。

 「共産党との共闘の必然性を、ドイツ的・民族至上主義的な側に立つ諸君が認識して、はじめてドイツ帝国は救われる。ユダヤ資本反対を叫ぶ者は、意識せずにしてすでに階級闘争の闘士なのだ。ユダヤ人・資本家を踏み倒せ、街頭に吊るせ、踏み潰せ」(ルート・フィッシャー)

 当時のドイツ共産党は、ナチスの反ユダヤ主義に歯止めをかける努力をしなかったばかりではない。むしろ逆に、ナチ党支持者を自党に引き抜くために、反ユダヤ主義をスローガンにしてドイツの労働者を扇動していたのだ。この事実は忘れるべきではない。

 ドイツ共産党のナチ支持者切り崩し工作は、一定の「成果」も収めている。たとえば、元帝国陸軍少尉リヒャルト・シェーリンガーはナチ党から共産党に鞍替えした。1931年4月のドイツ共産党機関紙『赤旗』は、「キリスト教の搾取者と同様、ユダヤの搾取者にも決着をつけるだろう」という論文を発表するに至るのである。

 共産党がナチスの切り崩しに成功したかといえば、歴史の示す通り答えは否である。かえって、筋金入りの党員までが、ファシストをおびき寄せるために考え出された<民族革命>なるスローガンに食いつき、「階級」のかわりに「民族」というのを当たり前だと思うようになってしまったのである。このことの代償がどれだけ大きかったことか。「ユダヤ人を苦しめ迫害したツァーリズムに屈辱を、ユダヤ人に敵意をうえつけ、それ以外の諸国民に憎悪を植えつける者に屈辱を」というレーニンの言葉は完全に忘れられた。

 日本共産党は象徴天皇制を容認するに至った。私たちはレーニンの批判した第二インターナショナルの崩壊からドイツ共産党の敗北に至る歴史に学ばなくてはならない。

 もうひとつ、忘れてはならないことがある。今日、「ファシズム」というと、極端な排外主義や民族主義の別名になっているけれども、『わが闘争』におけるヒトラーが「民族」という概念を、近代の自由主義の産物として批判していることである。600万人のユダヤ人を絶滅収容所に追いやった「人種」というイデオロギー装置も、「階級」も「民族」も超越するものとして構想されたものだったということである。ナチス左派の問題とあわせて、このことについては、また機会を改めて検討してみたい。

【参考文献】
『いま、なぜネオナチか?』ベルント・ジーグラー/有賀健+岡田浩平訳(三元社)