1952年6月24日、吹田事件。

 吹田事件は、日本共産党に関心のある人々には、ぜひ知っておいてほしい事件だ。映画『血と骨』には吹田事件のシーンが出てきたそうだけれど、いまなお左翼サイドでは省みられることが少ない。

 できたら、この項は、5月28日の罵詈争論氏の「在日」と合わせて読んでほしい。何と、日本共産党と民青は、このグローバル化の時代に、在日朝鮮人の加盟を認めていないというのだ。日本共産党は、すでに天皇制も容認した愛国的な民族主義右翼政党だから、朝鮮人の加盟など認めないということなら、同意はしないまでも、その理由はわかる。しかし青年の「大衆団体」「民主団体」であるはずの民青が、在日朝鮮人の加盟を認めていないのは理解に苦しむところである。「参政権がないから」だと代議員は説明したというが、それなら高校生を組織化することなどやめたほうがいいと思うのだが、どうだろう?
 私たちは1952年のサンフランシスコ講和条約発効まで、在日朝鮮人が日本国籍を保持していたことは知っておく必要がある。在日朝鮮人をはじめとした旧植民地出身者は、講和条約の発効をもって日本国籍を喪失することが一方的に通告された。

 朝鮮戦争のただ中であり、アメリカから見て敵国の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)は招かれていない。韓国は講和条約に参加することを要求したが、「日本は韓国と戦争していたのではない」とその参加に反対した。在日朝鮮人もこの講和会議には参加していない。結局、どの朝鮮人の代表にも相談のないまま、在日朝鮮人は日本国籍を失ったのである。このことは、日本共産党の戦後の歩みを考えるときにはもちろん、戦後民主主義の影の部分を考えるときに、忘れてはならないことである。

 吹田事件の背景には、在日朝鮮人と当時の共産主義運動の複雑な歴史がある。朝鮮戦争については、萩原遼氏による優れたルポルタージュ『朝鮮戦争』がある。この仕事については、また明日の朝鮮戦争開戦の項で、時間の許す限り触れてみたい。

 吹田事件では、武装共産党の「極左冒険主義」ばかりがクローズアップされてしまう。しかし吹田事件の本質は朝鮮戦争反対の大規模な集会・デモ行進であり、ナパーム弾や親子爆弾……現在のクラスター爆弾……を朝鮮半島に送るのを阻止するための反戦闘争だったことを忘れてはならない。「軍需列車を1時間送らせれば1000名の生命が助かる」――参加した在日朝鮮人のほとんどが、母国の家族・友人・同胞たちを想いながら、集会やデモに決起していったのだ。

 この日の前夜、大阪府学連の主催で「伊丹基地粉砕・反戦・独立の夕べ」が大阪大学石橋キャンパスで開催され、約3千人が結集した。その3分の2が朝鮮人だったといわれている。

 戦後の日本共産党では、在日朝鮮人党員が大きな位置を占めていた。戦後解放された共産主義者を、熱烈に出迎えたのが在日朝鮮人であった。ただちに結成された日本共産党には在日朝鮮人が数多く入党し、在日の星・金天海(朝鮮総連幹部)をはじめとする在日党員が中央委員会にも名を連ねた。1945年10月10日徳田・志賀らとともに府中刑務所を出獄した朝鮮人共産主義者金天海は、1945年12月に開かれた日本共産党再建第4回大会(三回までは戦前)で中央委員に選出され、第5回大会からは政治局員として最高幹部の一人となる。1947年の党勢拡大運動では、金天海の指導のもとに、全国各地の在日朝鮮人の活動家が大量に入党していたのだ。


 当時伊丹基地にはアメリカ進駐軍がおり、伊丹空港から連夜朝鮮半島に向けて爆撃機が飛んでいた。また吹田操車場からも軍事物資を載せた列車が走り、神戸港から朝鮮半島に送られていた。

 阪大のキャンパスから、集会参加者は二手に分かれデモ行進をスタートした。約1000人は「山越え部隊」といわれ、西国街道から徒歩で箕面を通り、吹田操車場に向かった。もう一隊は「人民電車部隊」といわれ、阪急石橋駅で駅長と交渉し臨時電車を運行させ(午前3時)、約800人が服部駅で下車し、吹田操車場に向かった。

 山越え部隊の一部は派出所や警官輸送トラックに火炎瓶を投げつけ、茨木市警の警官が火だるまになり、ピストル2丁を奪取している。後にこのことが吹田事件の全容であるかのような印象を残したが、そんな一部の跳ね返り分子だけの起こしたものではない。吹田事件に参加した朝鮮人共産主義者は、当時を振り返り次のように語る。

 「吹田事件の時、私は日本に来て3年目で、捕まったら強制送還。それは李承晩政権による処刑、つまり死を意味していた。だから勇ましいことをやったという記憶がない。……」

 彼は1949年6月に渡日し、故国がもっとも苦難の時に逃げてきたという後ろめたさ、心の責めもあって、すぐに日本共産党に入党した。

 「当時私たちにとって、朝鮮民主主義人民共和国は正義以外の何者でもなかった。私は韓国の白色テロを身をもって知っているだけにそうだった。四・三事件では6万人を下らない死者が出た。人口24万の島でだ。家屋の3分の2が焼かれ、舌しがたいほどの無惨な殺され方だった。このような残虐行為を行ったのは日帝時代に甘い汁を吸ってきた親日派で、李承晩政権は親日派を基盤とした政権だった。私たちにとって北朝鮮こそが正義で、それに対して侵略行為を行い、人々を殺しているのが国連軍という名のアメリカ軍で、そのアメリカ軍は日本を基地としていた」

 アメリカ軍が落としたのがナパーム弾で、「親子爆弾」とよばれた後のクラスター爆弾の前身となる爆弾もあった。まさに人を殺すための爆弾だ。軍需列車を1時間遅らせると1000人の命が助かる。在日朝鮮人は、みんなそんな純粋な気持ちで闘争に命がけで参加したのだ。決死隊を募り、線路の上に寝て列車を阻止しようとした。

 「あの正義の北朝鮮がどうしてあのような国になってしまったのか……」

 裏切ったのは北朝鮮ばかりでなかった。1955年の六全協で、宮本体制を確立した日本共産党は、「極左冒険主義」を「自己批判」して、今までの闇の部分を在日朝鮮人もろとも切り捨てた。現在、共産党は在日朝鮮人の入党を認めていない。参政権の問題でも「国政はダメ、地方はOK」という立場をとっている。この事実だけでも、日本共産党には民主主義も人権も、反戦平和も語る資格はないというほかない。

 しかし、党員や民青の方々に、吹田事件を知ってほしい今日的意義は、それだけでない。吹田事件から50年めの集会で、その朝鮮人共産主義者はこのように言った――、「今まさに、吹田事件が必要だ」と。軍需列車を1時間遅らせると、1000人の生命が救われる。この言葉こそ、私たちがいま自分自身のものとしなければならないものだろう。

【参考サイト】
罵詈論争「在日」(当BLOG)
http://blog.livedoor.jp/busayo_dic/tb.cgi/23342167
「朝鮮戦争と吹田・枚方事件−−戦後史の空白を埋める」脇田憲一氏
(宮地健一氏のホームページ)
http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/wakitasuita.htm

50年目の証言・吹田事件とわたし 〜戦争と平和を考える〜(2002年6月22日吹田市民会館にて)
http://homepage2.nifty.com/mi-show/peaceright/suita.htm