違う文化、違う立場、違う考えの者同士が交わることを交流といいます。
日本の国内に目を向けますとプロ野球の交流試合の真っ最中で、多くのエキサイティングなゲームや、新鮮な組み合わせで私たちは楽しませてもらっています。
そして「やっぱり野球は面白い」と再認識し、観客も球場へ戻ってきました。

あれだけ改革に後ろ向きだった、ジャイアンツの会長の氏家さんにさえ「交流戦はやってよかった」と言わせるほど「交流」には変化を生み出す力、新しい風を吹き込む力があります。

まだ、交流戦のの中盤で気が早いのですが、成功したと言って良い結果をもたらしたのは、イベント的な盛り上がりと本気でプレーする選手達の姿があったからこそだと思います。

共産党においても機関紙、赤旗には「交流」という言葉が躍り、活動の中でも「交流」という言葉はよく使われます。しかし、これだけ「交流」「交流」と言ってるのに国民の注目も支持も集めず、党内が停滞しているのは何故でしょうか?
本来、交流は異質なもの同士が交わるわけですから、そこには激しいぶつかり合いや、火花を散らすような論争があったり、時にはギクシャクするわけですが、共産党の交流にはそういう緊張感のようなものが無ように思われます。
よくよく見れば交流相手も共産党の近しい人が多く、「異質な交流」ではなく、自分たちの殻に閉じこもって「同質の会合」をしているだけではないのかと思われる節もあります。

自分達に批判的でない人たちとの交流や、財界のような異質ではあるけれども、本音を言わないよそよそしい交流など、国民の側からすれば退屈で注目されるはずもありません。また、共産党にとっても変化を生み出す力、新しい風を吹き込む力が得られないわけですから、同質の会合ばかり続けていては、内部の活力が失われていくことにつながりかねません。

そもそも、共産党は左翼を自称しているのですから、右を見れば異質な存在に事欠くことは無いはずです。共産党がプロ野球の交流試合のような注目を集めたいと考えているなら、たとえば靖国問題などで右翼と交流してみてはどうでしょうか?
本物の交流をすれば「交流してよかった」と言える結果がついてくるかも知れません。

罵詈争論でした。