(今日の暦)
 1976年5月31日、フランスの分子生物学者ジャック・モノー(1910−1976)歿。66歳だった。
 モノーは1965年ノーベル生理学医学賞を受賞した。この世界的な科学者が、社会主義について真正面から論じているというのも、今となっては感慨深いものがある。

 「19世紀のこの大いなる夢(社会主義)は、若い人たちの魂のうちにいまもあいかわらず痛ましいほど強烈に生きている。痛ましいというのは、この理想がこうむってきた数々の裏切りのゆえにであり、またこの理想の名において犯されてきた数々の犯罪のゆえにである。この魂の奥底から発した念願が、物活話(アニミスト)的イデオロギーの形においてしかその哲学的理論を見いだすことができないままできたというのは、悲劇的なことであるが、おそらく不可避的なことだったのであろう」(『偶然と必然』)

 この本が出た頃(原著1970年、邦訳1972年)には、私たちも若者だった。今も社会主義の理想が強烈に生きているかどうか定かでないが、もう何十年もあの大いなる夢はラビリンスに迷い込んだままだ。

 モノーが「アニミスト的」(物括話的)といっているのは、弁証法論的唯物論すなわちマルクス主義のことである。エンゲルスの理論をさらに単純化した、ロシア・マルクス主義の「科学」理論は、モノーならずとも、理系の学生から見たら、子どもだましの素朴な物質崇拝にしか見えなかったにちがいない。

 「しかし」とモノーは問いかける。マルクス主義のイデオロギーが、これほどまでも強力に、人々に絶大な影響力をもったのは、なぜなのだろうか? それがたんに人間の解放を約束したことによるだけではない。人間の個体発生的構造と、そこに述べられている過去・現在・未来の歴史を貫徹する完全かつ詳細な説明=物語の力に由来しているのだ。

 史的唯物論は、人間の歴史に限られていた。しかし弁証法的唯物論においては、人類の歴史と宇宙の歴史は、同じ永遠の法則に服従するものとして結びあわされることになるだろう。マルクス主義とは、歴史と科学との統一理論であり、全自然史における壮大な進化論なのだ。

 しかし、スターリン批判以降、次々と明るみになる「社会主義」国家や政党の実態は、人々のマルクス主義にたいする信頼や期待を土台から揺るがしていた。モノーは弁証法的唯物論の主張する「科学」を、分子生物学にもとづいた現代進化論の立場から徹底的に論破していく。生物の進化は突然変異という<偶然>のもたらしたものにすぎない。その偶然性が実現し定着するためには、生物の合目的性という<必然>の世界のふるいにかけられるというだけにすぎない。

 しかしこのように語ることで、モノーは「科学」を名乗るニセ科学のマルクス主義を、真の科学主義によって否定したのではない。モノーの方法は、『資本論』を経済科学に純化しようとした宇野弘蔵と同じものである。

 語り得ぬものについては沈黙しなければならない(ヴィトゲンシュタイン)。しかし語りうるものについては全て語りきらねばならない。モノーは生命を物理化学だけで語りきることで、逆説的に、語り得ぬ新しい生命のモラルの展望を指し示そうとしたのだ。

 しかし、モノーが見いだしたのは、「みずからの根元的な異様さを発見」した人間の、狂おしいほどの孤独であり不安だった。

 「この峻厳にして冷静な思想は、いかなる説明(物語)も提示せず、しかもあらゆる霊的な糧への欲望を禁じ断念させるものであるから、とうてい先天的な胸苦しい不安を鎮めることができず、それどころか、ますますそれをかきたてるのである。この思想は、人間性そのものに溶け込んでいた数十万年来の伝統をひと掃きで消し去ろうとした。それは<人間>と自然とのあいだの物括的旧約を告発し、この貴重な絆の代わりに、冷えきった孤独な宇宙のなかでの胸苦しいまでに不安な探索を、あとに残すだけにしたのである。
 ……<人間>は、ついに古来の夢から目ざめて、みずからの完全な孤独を、みずからの根元的な異様さを発見するはずである。いまや彼は、まるでジプシーのように、自分の生きるべき宇宙のふちにいることを知っている。宇宙は、彼の音楽を聴く耳を持たず、彼の苦悩や犯罪にたいしてと同じく、彼の希望にたいしても無関心なのである。」(『偶然と必然』)

 弁証法的唯物論は、自然とのあいだの絆をたちきってしまった。もはや人間にはどこにも帰る場所はない。この世に救済はない。希望もない。

 しかし、いったいそれがどうしたというのだろうか? 私たちは、弁証法的唯物論も分子生物学も、何もむずかしい学説は知らなくても、モノーの問いに対する答えを、ちゃんと知っている。すべてが偶然で、無根拠であるというのならば、すべてが選択肢たりうるというだけである。この譲渡不可能な自由において自己を見いだし、かけがえのなさにおいて友を発見して、何物にも還元しえ得ない他者を発見するなかに、人間の新たな連帯の可能性をめざすたたかいも始まるだろう。

   To be yourself is to be
   Alone with the wind crying
   When all that you ask for is
   The warmth of a human fire.

   We are not important.
   Our lives are simply threads
   Pulling along the lasting thoughts
   Which travel through time that way.

   たぶん、君自身になるってことは
   泣き叫ぶ嵐の中に、君独りいるってことだ、
   そのとき君が求めるすべては
   人の焚き火に手をかざすことだけ。

   わたしたちは重要じゃない。
   わたしたちの人生とは、それでもって
   永続する思考を引っ張りまわしている、たんなる糸、
   思考はそのようにして、時を貫き旅をする。
           (『今日は死ぬのにもってこいの日』 ナンシー・ウッド)

 


【参考文献】
『偶然と必然』J.モノー/渡辺格+村上光彦訳(みすず書房)
『今日は死ぬのにもってこいの日』 ナンシー・ウッド/金関寿夫訳(めるくまーる)