5月28日、パリ・コミューン崩壊。


 捕らえられた者たちは、騎兵や憲兵に護送されて、追い立てられながらヴェルサイユに送られた。つまずいてころんだりすると、銃剣でつついて立ち上がらせた。落伍したものはピストルで撃ち殺した。あるいは馬の尻尾でしばりつけた。こして男も女も、子どもも老人までもが連れられていったのだ。
  5月27日から28日にかけての夜は大嵐だった。雷鳴とともに、雨が車軸のごとく降り注ぎ、人々は泥海のなかで、ずぶぬれになってしまった。誰もが気が狂いそうだった。中には本当に気の狂った者もいた。闇の中を人々が立ち上がって右往左往し始めた……突如銃声がひびき、群集の中から阿鼻叫喚が起こった。銃声、雷鳴、豪雨、流血、群集の阿鼻叫喚。

 ガリフェー護送司令官は、捕虜にたいしてしばしば査問を行った。この査問がいかなるものだったかは、『三色旗』(トリコロール)紙が伝えている。

 「5月28日日曜の朝、2000人余のコミューン戦士の中から111人がバッシー付近で銃殺された。《白髪の者は列から出よ!》というのがガリフェー護送司令官の命令であった。彼らが1848年革命世代の人間であったという事情が、かれらの事情を加重せしめたらしい」

 支配者の憎悪を一身に集めた4万のコンミューンの人々は、侮辱され、愚弄され、虐待されながら、裁判の日を待った。「裁判」と称するものは8月から始まった。裁判官はヴェルサイユ軍の将校や下士官たちだった。彼らから公平な裁判は期待するべくもなかったが、それにもかかわらず、4万名の収容者中、有罪判決を下されたのは1万404名にすぎなかった。このことは、いかにでたらめに逮捕が行われたかを示すものである。

 コミューン議員で、逮捕され、裁判を受けた者は、15名だった、……フェレー、アッシー、ジュールド、パシャル・グルッセ、レジェール、ビリオレイ、クルベー、ウルバン、ヴィクトル・クレマン、トランケー、シャンピー、ラストゥール、ヴェルデュール、ウリス・パラン、デカン。コミューンの戦士たちの法廷陳述。

 靴工トランケー……コミューンでは目立たない男だったが、市街戦中最も勇敢に戦った戦士の一人だった。

 「私は区内の市民諸君からコミューンに送られた。私は自分の生命をコミューンに捧げた。私はバリケードで戦った。そこで殺されなかったことを残念に思う。私は叛乱参加者である。私はそのことを否認しない」

 フェレーは国防政府とティエール政府を激しく糾弾する弾劾声明書を読み上げようとした。裁判長はこれを途中で制止した。朗読中止にあたり、フェレーは鷹揚としてこう述べた。

 「コミューンの議員として私は勝利者の手中にある。私は自由に生きてきたし、そして今自由人として死ぬであろう。ただ一言いたいことがある。幸福は気まぐれなものである。私は私の名前と復讐を将来に委ねる」

 女性闘士、ルイズ・ミシェルは、小学校の先生だった。コミューン成立後はその活発な協力者となり、血の一週間には自らバリケード上に戦った戦士だった。

 「わたしは自分を弁護しようとも思わないし、弁護されたいとも思いません。わたしはわたしの全生命を社会革命のために捧げました。一切の行動にたいして責任をとる用意があります。あわれみはご無用。みなさんは、わたしが将軍の処刑に関係したということをわたしの罪状にしています。これにたいしてわたしはこう答えます、そうです、将軍が人民に発砲させようとしたとき、もしわたしがモンマルトルにいたとしたら、このような命令を与えた人間をわたし自身射殺することに躊躇しなかったでしょう。

 わたしが野戦裁判所と称するものをこしらえているみなさんに要求したいことは、すでに多くの兄弟がたおれたサトリーの野でわたしを処刑してくれることだけです。わたしを社会から放逐せねばならぬと検察官はいわれました。よろしい、自由のために鼓動する心臓には鉛の弾を受ける権利だけが残されているというならば、わたしもまた喜んでその仲間に加わりたいと思います。もしみなさんがわたしを生かしておくならば、わたしは復讐を叫ぶことをやめないでしょう」

 ルイズは19世紀のジャンヌ・ダルクとも称された女性で、火あぶりの代わりにニュー・カレドニアに流刑となった。大赦令で流刑地から帰国するや、最も著名なアナキストの一人となった。

【参考文献】
『パリ・コンミュン史』 淡 徳三郎(法政大学出版局)