1895年5月25日、台湾民主国樹立。

 アジアで最初に「民主制」を標榜した共和国は、どこか考えたことがあるだろうか? その実態はともあれ、110年前のこの日に建国された、この台湾民主国である。日清戦争の講和条約による台湾の日本の領有を阻止するために樹立された。
 恥ずかしながら、この独立国の存在そのものも、つい最近まで知らなかった。このBlogが何の役に立っているのかわからないが、続けてみるものである。少なくとも私は役に立っている。

 台湾の日本への割譲が決定的となった1895年5月中旬から建国の動きが始まっている。23日に独立宣言、この日、台北を首都、年号を永清、清朝が派遣した台湾巡撫唐景◇を総統とする、台湾民主国の独立式典が挙行された。(◇は山かんむりに松)

 日本側が李鴻章に講和条約草案を手渡し、台湾の割譲を要求したのは、1895年4月1日のことである。しかしこれに対して、日本本土奇襲を計画し、台湾で兵を募ろうとしていた人物がいる。南洋大臣・張之洞(1837−1909)である。さらに張は台湾を抵当にしてイギリスから借款することも清廷に建議している。

 張之洞は、1884年の清仏戦争では強硬な主戦論を主張して戦闘を指揮した人物である。清仏戦争の敗戦後には、富強化に目をむけ、両広総督在任中から財政整理・吏治粛清・産業振興・軍備の近代化につとめた人物だった。1894年から始まった日清戦争(甲午中日戦争)には、「自強軍」という西洋式装備の陸軍を創設していた。

 4月17日に、日清講和条約調印。張は以前より敵対関係にあった李鴻章を排撃、富国強兵の必要性を訴えていた。さらに台湾巡撫の唐も動かして、イギリス・ロシアに台湾保護を要請に動いている。台湾士紳(漢社会の特権階級)も割譲に反対、唐巡撫に抗日を要求する。

 4月23日には、ロシア・ドイツ・フランスのいわゆる三国干渉が始まっている。しかし返還を要求されたのは日本が領有した遼東半島のみであって、台湾は除外されていた。この頃、唐景◇は、フランスと結んで「東南海に新世界」を作る可能性について、本国に打診している。台湾が自主独立しても、清朝の支援は困難だった。日本に対抗するためには、ほかの列強の支援をあてにする必要があったのだ。

 一方、新竹一帯では、台湾割譲に反対した台湾独立運動が起きている。民衆の暴動もあいついで起こった。今まで清朝の圧制下にあった住民が、台湾における清朝の統治権力の凋落に乗じて、叛乱を開始したのだ。台湾の民衆の叛乱は、日本の侵略に反対するばかりでなく、清朝の支配に対する叛乱でもあった。

 「東南海に新世界」をつくろうとした台湾民主国の歴史は、あまりに短かった。日本軍の猛攻を受けて唐総統は6月4日に首都台北から脱出、6日には台湾から逃亡。6月下旬に台南で民主国政府が再建されるが、日本軍の攻勢に抗しきれずに、10月19日に148日間のその短い歴史を終えた。

 台湾民主国はその実態はきわめて脆弱なものだった。また民衆の抗日闘争に結びついていたともいえない。しかし今日の台湾独立運動の底流に、幻に終わったこの台湾民主国の歴史があることは忘れてはならないだろう。