1871年5月24日、トーロー要塞。

 憲兵と囚人は小舟に向って出帆した。かすかな火が沖に無数に光って見えた。潮は引いていた。2時間ほど走って小舟は波のなかから突き出ている黒い大きな影の下に着いた。トーロー城である。
 「止まれ! 誰か」−−「フランス!」と曹長が答える。「隊は?」−−「憲兵!」−−「よし、通れ!」

 舟からよく滑る石の上をやっとのことで上陸し、跳橋に通じている石段をのぼり、跳橋を渡り、三十人程の兵士が武器を手に整列している玄関に入った。3日前に到着していたトーロー要塞駐屯部隊だった。士官は囚人に目くばせをして、狭い中庭へつれてゆき、それから石の階段をのぼって小さなドアをあけた。老いた囚人は寒気と疲労で精魂つきており、この暗黒の中へ入るやいなや、闇の中に見える粗末なマットレスの上に身を投げ出した。ドアがしまり、閂のいやらしい音がした。「一八七一年五月二十四日、午前三時」とブランキは書いている。

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 1871年5月24日、パリ−−。

 はるか東のパリでは、コミューンの最後の戦闘が続いていた。ポーランドの革命児ドンブロフスキーがバリケードの上に斃れたのは、5月23日だった。第13区ではウロブレスキーが数千の闘士を集めることに成功した。第13区隊は4回にわたりヴェルサイユ軍の大集団の攻撃を撃退し、逆襲に移り、陣地を奪回することに成功していた。しかし形勢の逆転はほぼ絶望に近かった。

 ヴェルサイユ軍が見さかいもなく捕虜を殺し、婦女子も容赦しなかったのにたいし、コミューンは1ヶ月半前に発令した人質処刑に関する法令を、あえて発動させようとしなかった。しかし追いつめられたコミューンも、このときになって、はじめて人質の処刑を行う。23日夜に大司教ほか5名の銃殺が行われた。この人質銃殺の報を聞いた司令官の60歳の老革命家ドレクリューズは、手で顔を蔽って、「何という恐ろしい戦争だろう! 何という恐ろしい戦争だろう!」と嘆いたという。しかし、彼はまもなくわれにかえって叫んだ、「われわれも立派に死のう」。もはやコミューン戦士1名にたいしてヴェルサイユ軍の兵力は10名以上であった。24日の暮れ方には、セーヌ左岸では第13区が、右岸ではセバストポール通りおよびストラスブール通り以東の小地域が残されたにすぎない。

 ペール・ラシューズ墓地に、ドンブロフスキーが葬られたのは、24日の晩のことである。彼はいかに英雄的な戦士だったことか! ヴェルモレルは追悼演説のなかで述べた。

 「彼こそはコミューンのために命を捧げた最初の一人である。しかるにわれわれは、彼にならう代わりに、何をしているのか? さあ、今われわれは死ぬためにのみこの場所を立ち去るのだということを誓おう」

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 ブランキは看守以上にトーロー城の位置や歴史をよく知っていた。海岸線の紆余曲折も防禦設備もつかんでいたし、潮の流れも、陸の街道や小路も知悉していた。ほうりこまれたこの穴の中で彼は思いをこらし、この建物の構造と歴史を思い描いた」

 トーロー城は、イギリス人の侵入を防ぐために築かれた前哨基地だった。それが今では、兵士にとっては兵営になり、囚人にとっては土牢になったのだ。モルレの市民たちがこれを築いたのは1642年、国王がそれを取りあげ、国事犯の監獄にしたのは1660年だった。

 ブランキを監禁したのは誰だったのか、……自分だと名乗りをあげる者はいなかった。いかに戒厳令下でも、いかに軍事法廷の支配下でも、裁判上の手続きも身柄収容の手続きも予審判事の尋問もすべて省いたこのような人身拘束は、このような例外措置は、法律の許可するものではなかったのである。しかし、目的のためには手段を選ばないティエールの差し金であったことはまちがいない。ブランキを捕まえたという電報が入るやいなや、「やったぞ! 悪党のナンバーワンを捕まえたぞ!」と委員会室に飛び込んできたという。

 ティエールの計画は、1848年のカヴェニャックの計画と同じだった。軍隊を離れたところに集結させておき、蜂起をいったん野放しにして、それからおもむろに粉砕するのである。1848年にはこのやり方を批判したティエールが、1871年にはこれを自ら採用したのだ。

 同じ敵と共同して戦った王政復古以来、昨日の友が今日の敵となった七月王政の当初以来、ブランキはティエールの仇敵だった。ティエールはブランキの『祖国は危機に瀕す』を読んでいた。ティエールの決定、−−「あの囚人を返すことは叛徒に一個師団を送るのにひとしい」これが囚人の交換を拒否して大司教はじめ人質全員を見殺しにした理由、コミューン蜂起の前夜ブランキを逮捕して不法にも監禁し、トーロー城へおしこめた理由だった。


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 1871年5月下旬、報道各紙。

 『公共の福祉』紙−−「われわれには、敗戦した敵を侮辱するような考えはない。しかし実のところ、あのならず者たちは敵であろうか? かれらは、自分から人道の法則外に出ていった無頼の徒である」


 『祖国』紙−−「略奪のために略奪し、殺人のために殺人してきたようなかれらの行動にたいして、憐憫の余地があろうか? 瀕死の将校の胸を包丁でさき割るような恐ろしい女どもにたいして、憐憫の余地があろうか?」

 『フィガロ』紙−−「われわれは逃亡潜伏した者を、冷静に、しかし秩序を重んじる人がその義務を遂行する峻厳さをもって、仮借するところなく、野獣のように駆り出さねばならぬ」

 政府の官報は、兵隊たちに次のような激励を与えている。

 「このような条件のもとにおいて勇気ある大国民が行動するであろうように行動せよ、捕虜にする必要はない!……勇気ある兵士が殺された戦友の復讐することは自由である。明日再び冷静が取り戻されたときにはできないようなことも、戦塵では許される。射て!」

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 老ブランキは、昼も夜も続くトーロー城の騒音に悩まされ続けていた。4、5メートルの間隔で窓の下に立っている歩哨たちの、30分ごとの交代の怒号。さらに士官や下士官はわめき声でやりとりする哨戒が続く。怠れば営倉入りだから、みな血管が破れるほど声をあげる。昼間は夜以上にひどかった。兵営内の酒保(売店)は高い歓声とそれ以上に鳴り響く歌声で満ち、酒保のおかみと二人の子どもたちが騒ぎ続けた。

 「あなたは私を墓地に閉じ込めている」とブランキは司令官にいった。「だから少なくとも墓地の静謐を与えてほしいものです」

 ブランキの心のなかには、常に監獄と墓地があった。このトーロー城で、ブランキは、永劫回帰の宇宙論『天体による永遠』を書き上げる。

 宇宙には全体的な調和など存在しない。乱れと偶然が存在するがゆえに、星々の衝突、革命、星々の永劫の死と復活がありうるのだ。無限は二者択一を知らない。なぜならすべてが選択肢たりうるからだ。

 「この地上で人がなりえたかもしれないものは、すべて宇宙のどこか他の場所に存在している。誕生から死に至る自己の全生活が無数の地球上で生きられているのみならず、それの違った版が何万とあるのである」

 「世紀の流れをいくらさかのぼっても、自分が生きていなかった瞬間は見つからないだろう。宇宙には始まりがないし、したがって人間にも始まりがないからである。トーロー城塞の土牢の中で今書いていることを、私はかつて書いたことがある。また未来永劫に書くであろう。同じようなテーブルに向かい、同じようなペンを持ち、同じような服を着、同じような情況の中で」(『天体による永遠』)

【参考文献】
『ブランキ 革命論集』 加藤晴康訳(彩流社)
『天体による永遠』 L.A.ブランキ(雁思社)
『幽閉者 ブランキ伝』 G.ジェフロワ/野沢協+加藤節子訳(現代思潮社)
『パリ・コンミュン史』 淡徳三郎(法政大学出版局)