1887年5月20日、レーニンの兄、アレクサンドル・ウリャーノフ処刑。

 ウリヤーノフ夫妻は、ヨーロッパの芸術、哲学、科学に通じた教養人だった。近代的で西欧的なロシア社会の実現は、ロシア帝国のもとでなされると考えた「愛国者」でもあった。このことには、ウリヤーノフ家……両親ともに純血のロシア人の血統でなかったという説もある……が、世襲貴族の家族としては新参者だったことが影響している。

 この慎み深い穏健派の両親から、なぜアレクサンドルとヴラジーミル(レーニンの幼名)、世界史に名を残す二人の革命家が生まれたのだろうか。
 ウリヤーノフ夫妻は直接政治を議論することは避け、子どもたちが、「危険な革命思想」に共感を示さないように細心の注意を払っていた。当時は、プーシキン、レールモントフ、ゴーゴリ、ツルゲーネフ、トルストイ、ドストエフスキー、ロシアの偉大な詩人と小説家はほとんどがすべて、「破壊的な思想」を提供したとして、国家の検閲に引っかかっていた時代である。両親の教育方針は、次のようなエピソードにうかがい知ることができる。

 「ウリヤーノフ家の子どもたちは、長兄のアレクサンドルから、紙でおもちゃの兵隊を作り、戦争ごっこをすることを教わった。アレクサンドルはイタリアのリソルジメント運動のガリバルディ(*)の軍服を着た兵士を作った。アンナとオリガは、ナポレオンの侵略にたいして国を守るために戦ったスペイン軍を選んだ。ヴラジーミルは、アメリカ南北戦争で奴隷制支持の南部と戦ったエイブラハム・リンカーンの連邦軍を断固として選んだ。」(『レーニン』p61)

 ウリヤーノフ家の子どもたちが、民族的、政治的、社会的自由を支持する文化的環境のもとで育てられたことを示している。「リンカーンの連邦軍」を選んだウラジーミルの一番のお気に入りの本は、『アンクル・トムの小屋』だった。若きウラジミールに、チェルヌインシェフスキー(『何をなすべきか』作者)が、マルクスが、プレハーノフが、カウツキーが与えた影響については、多くのことが語られている。しかし悲惨な運命から逃れようとする黒人奴隷を主人公に、人間の尊厳を描いたストー夫人の影響について語られることは少ない。両親はロシアの「危険思想」から遠ざけることには成功した……しかし、この教育方針はあまりにもナイーブにすぎたかもしれない。

 兄のアレクサンドルは、サンクト−ペテルブルグ大学の数学・物理学部に入学した。優秀な学生で、金メダルを受賞した学位論文は、ミミズやヒル、環状動物の生態に関する研究だった。しかし当時は、理学部と工学部が、帝政に反撥する若者たちを引きつけていた。1886年、20歳のアレクサンドルは、皇帝暗殺によって革命的変革を起こしうると信じる小さなグループに近づいていった。

 「指導者はオレスト・ゴヴォルヒンとピョートル・シェヴィリョフである。アレクサンドルは、二人にとって役に立つ新入団員であった。……科学の実用的知識のある科学者であることも、測り知れない程の有利な条件であった。二人は彼に、皇帝を殺害する爆弾のためのニトログリセリンの製造を依頼した。アレクサンドルの表現能力も重要であった。二人は彼に、集団の政治的目的を説明する宣伝文書を執筆するのも助けてもらいたいと頼んだ」(『レーニン』上巻・p74)
 
 1881年、人民の意志党によるアレクサンドル二世の暗殺に対する報復と弾圧により、ロシア革命運動は外見上まったく鎮圧され、ロシアはふたたび安定、平穏、静謐、強力なままだった、……と、反動主義者たちは信じていた。

 ナロードニキを絶望的な個人テロルに追い込んだのは、ツアーリの暴虐よりは、宣伝と煽動に応じて起ちあがろうとしない農民たちに対する絶望だった。ロシア・マルクス主義の父プレハーノフも、ナロードニキからの転向組である。資本主義的発展の段階を経ることなく社会主義社会への転換はもはや不可能なのだ。農民の伝統からは学ぶべき積極的なものは何もないとされた。農村の眠りを破り、階級意識を目覚めさせるためには、発展するプロレタリアのたたかいが必要なのだ。ナロードニキは、プレハーノフを「革命運動の裏切り者」だと非難した。

 アレクサンドルの「人民の意志党・テロリスト支部」は、皇帝アレクサンドル三世の暗殺をめざしたばかりでない。ナロードニキとマルクス主義、敵対状態にあった新旧の革命運動の接合を目的としていた。すでにマルクスのいくつかの著作をロシア語に翻訳していたアレクサンドルは、社会の発展の「科学的法則」に基づいて、全国を代表する選挙制の議会を要求した。これらはプレハーノフの主張と同じだった。また農民には言及せず、社会のすべての抑圧されている階層に帝政廃止−皇帝暗殺の基礎をおいた。真理、科学、自由、正義……そのすべてがロシア帝国内の革命運動の理想であった。

 しかし皇帝暗殺計画は失敗する。アレクサンドルも逮捕された二人のメンバーの自白により逮捕される。警察は自白によって計画のすべてを知っていた。

 「アレクサンドル・ウリヤーノフはそのことを知ると、きわめて大胆な決意をした。第一に、自分のかかわっていなかった陰謀の側面についても一切の責任をとることにした。第二に、裁判を利用して彼ら革命家たちの基本的な理念を拡げようと決心した。政府の検閲のために合法的な新聞紙上ではその機会がなかったからである。この決心はおそらく自分の生命を失わせることになるだろうことを、彼は知っていた」(『レーニン』上巻・p78)
 
 母マリヤは皇帝アレクサンドル三世に助命の嘆願の手紙を書いた。警察当局も特例として母の面会を許可する。しかしマリヤによる説得も、ついにアレクサンドルの決意をひるがえすことはできなかった。1887年5月20日(ロシア暦5月8日)の早朝、アレクサンドルは絞首刑に処される……。21歳だった

 後年、「レーニン」という筆名で知られる16歳の少年は、官製の伝記作者たちによって「ナロードニキのテロは戦略的に破綻している」という結論を下したことになってきた。しかしこれほど信頼できない話はない。

 信憑性があるのは、ウリヤーノフ家の子どもたちの家庭教師カシュカダモヴァの回想だろう。彼女はヴラジーミルが弟や妹たちの苦痛をまぎらわすために、「ロットとシャレード」(謎かけの言葉あそび)を進んで遊んでやったことを印象深く記憶している。ヴラジーミルが兄の行動について、こう語ったのを彼女は記憶している。

 「彼はあのように行動しなければならなかったのだ。あれ以外の行動の仕様はなかったということだったに違いない」(『レーニン』上巻・p80)

 兄の死とともに、二十世紀最大の不世出の革命家が誕生する。そのときヴラジーミルの心に甦ったのは、幼き日に読んだアンクル・トムスのことばだったかもしれない。

 「俺は、おまえのようなクリスチャンじゃないんだよ。エリザ。俺の心は苦しみであふれている。俺は神様なんぞ信じることはできない。なぜ、神様は世の中をこんなふうにしているんだ………。エリザ、俺のために祈っておくれ。おそらく、神様はお前の言うことは聞いてくださるだろうさ」(『アンクル・トムの小屋』)

(注)
*リソルジメント……イタリア統一運動
**ガリバルディ イタリア統一のために義勇兵を率い、ゲリラ戦で戦った英雄。

【参考文献】
『レーニン』 ロバート・サーヴィス/河合秀和・訳(岩波書店)
『ロシア革命運動の曙』 荒畑寒村(岩波新書)

【参考サイト】
▽レーニンの伝記 兄アレクサンドロフの処刑(林紘義著「レーニンの言葉」)
http://homepage3.nifty.com/mcg/mcgtext/MEL/lenin/lenin.html
▽ロシア革命の源流を探る
http://members3.jcom.home.ne.jp/wing-pub/book/book013.html
▽レーニンがこどもだったころ(チムール・キビーロフ)
http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/literature/kibirov.html
▽アンクル・トムス・ケビンのページ
http://www.home.cs.puon.net/ksyhon/WWW/TEXT_BOX/ankurutom20040315.htm