1974年5月11日、足尾鉱毒事件が80年ぶりに決着。

 古河鉱業が被害者971人に補償金15億5000万円を支払う調停案に双方が受諾した。

 足尾銅山はこの前年、1973年に閉山した。そう、この時点までは操業していたのだ。このことは、意外に知られていない。

 1610年(慶長15年)に発見された足尾銅山の歴史は古い。江戸時代の日本は、世界最大の銅産国だった。住友財閥がその礎を築いたのも、「南蛮吹」といわれた99%の純度を誇った当時最先端の銅精錬技術である。元禄年間(1688〜1704)の日本の産銅量は世界最大の年産6000トンだったが、住友銅吹所は実にその3分の1を生産していた。足尾銅山から採掘された銅も、住友銅吹所をへて、オランダや中国に輸出されていたのだ。
 しかし幕末には衰退して、ほとんど廃坑になりかけていた足尾銅山に目をつけたのが、大阪の豪商鴻池家の手代から身を起こした古河市兵衛である。足尾銅山の経営権を手にした古河は、1877年から、明治における富国強兵政策のなかで、近代技術を導入して増産に増産を重ねた。しかし採銅後の処理費をおしみ、鉱毒を含んだ廃石や鉱屑を渡良瀬川の谷に投棄したのだ。下流域の群馬・埼玉・茨城・千葉の5県におよぶ広い田畑が鉱毒で汚染され、甚大な被害を与えた。

 時の農相・陸奥宗光は、「被害は鉱毒に関係なし」として、住民たちの訴えを無視している。次男が古河家の養子になっており、財閥と完全に結託していたのだ。今後、『竜馬がゆく』を読む機会があったら、「なにが維新の志士だ!」「この財閥のもらい乞食めが!」とツッコミを入れるのを忘れないように。

 この足尾鉱毒問題に敢然と立ち向かったのが、1890年の第1回総選挙で当選した衆院議員、田中正造(1841−1913)である。しかし時の政府は、農民たちの請願活動を退けたばかりか、サーベルを抜いた武装警官隊で襲わせて弾圧したのだ。1901年、第15回帝国議会開会式からの帰路にあった明治天皇の行列に、田中正造は直訴する。政府は田中正造を狂人扱いにして釈放したが、世論は湧きかえった。東京の学生たちが大挙して被害地の谷中村、海老瀬村などその他の村々を訪問するようになった。 そのなかのひとりに、当時社会主義伝道の宣伝隊に加わっていた17歳の荒畑寒村である。

 「……畑の方で突然、「この村泥棒め!」と大喝する声が聞こえた。驚いてその方を眺めると、黒の綿衣に黒の袴をううがち蓬髪を風になびかせた田中翁が、長い杖をふりあげて追って行く前を洋服姿の男や、測量機械をかついだ人夫や、制服の警官が蜘蛛の子を散らすように逃げて行くではないか。けだし彼等はみな、谷中村買収の調査のために入り込んだ栃木県庁の吏員や、護衛の巡査などであったのだ。
 ああ「村泥棒め!」の絶叫、これ実に「野に呼べる人の声」である。そしてこの老義人が杖をふるって追えば、官憲もついに一指を触れ得ない。私はこの光景を見て感奮興起、ただちに一文を綴って平民社に送った。」
(荒畑寒村『谷中村滅亡史』−1970年新泉社版改版序文)

 住民たちの足尾銅山操業停止要求に対して、政府は原因は洪水にあるとして、鉱毒水を沈殿させるための貯水池建設計画を立てる。その候補地となったのが、渡良瀬川沿岸の栃木県谷中村、埼玉県川辺村・利島村である。

 谷中村こそは、足尾鉱毒問題の最後の抵抗拠点だった。1907年、明治政府は土地収用法を発動して、谷中村に最後までとどまり遊水池計画に抵抗した16戸の農家の家屋を破壊する。このときの内務大臣が、古河鉱業会社の元副社長で、後に「平民宰相」といわれた原敬である。

 きょうは荒畑寒村の『谷中村滅亡史』を紹介しておきたい。私が持っているのは、1970年の新泉社版の復刻版だが、今では岩波文庫版にも収録されている。この荒畑寒村のデビュー作は、即日で発禁になった。

 「ああ谷中村を記憶し、谷中村民を記憶し、田中正造翁を記憶する者は、また谷中村をして今日あるに至らしめし、明治政府と、資本家古河某とを記憶せざるべからず。しかして、他日必ずや彼等に対って、彼等が谷中村民になせしと同じき、方法手段を以て復讐するの時あるのを期せよ。ああ悪虐なる政府と、暴戻なる資本家階級とを絶滅せよ、平民の膏血を以て彩られたる、彼等の主権者の冠を破砕せよ。しかして復讐の冠を以て、その頭を飾らしめよ」
(『谷中村滅亡史』)

 天皇と資本家を打倒して血祭りにあげろ! この心意気やよし。83歳の寒村は、「文章が幼稚で古臭く、無暗に悲憤憤慨の形容詞が多く、われながら拙劣さにやりきれない感じだ」と書いているけれども、若者はこれくらい元気があったほうがいい。たしかに悲憤憤慨のきらいはあるが、まさに青春の弾道であり、無類の落語好きだった寒村らしく、リズムがあって読みやすい名文である。

 『谷中村滅亡史』を現代の若者はどんな風に読むだろう? これを書いた寒村とほぼ同年代の学生たちが書いた感想文より。

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 自ら「一気呵成」と言うとおり、その文章には激清が迸り、政府に対する彼の憤怒が真っ直ぐに伝わってくる。それがこの本の最大の特徴であろう。だが発禁処分。田中正造の「少し芥子が効きすぎましたね」という言葉どおり、その激情が、この本の欠点でもあるように思う。憤慨の多さに気後れしたり、本題を見失ってしまうことがあり得るからである。彼が怒っているのはわかったが……、という具合に。
 ただ、彼の激情は誰もが感じるであろうものだし、とても素直なものだと思う。そして、彼の怒りは、今のあなたも感じるかもしれない。彼の怒りの対象、現代も抱える問題──政・官・財の癒着──の忌むべき流れは、足尾を犯した鉱毒よりも根深いのだから。」

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 熱っぽくノスタルジックな文章。若さゆえの勢いで納得のいかぬ鉱毒問題に正面からぶっかった荒畑寒村。少し読んだだけでも彼の怒り、憤りが伝わってくる。これを読むには、こっちにも心構えというやつが必要だ。どこかの蔵にでも座布団とかひいて、湯飲みに熱い茶をいれ読みたい感じ。

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 「働かなくてもいい、別に勉強しなくてもいい、学費は親が出してくれるし仕送りもある。とりあえず大学行って、遊んでたって許される。そんな大学生活というぬるま湯に、のほほんと浸かっているのなら、のぽせる前にこれを読むべし。がつんと一発喝入れてもらったらいい。私たちと同じ、弱冠二十歳にして、こんなにも熱い文章を書いた奴がいるなんて、私も負けちゃいられないと思う人もいれば、かなり落ち込んでしまう人もいるかもしれない。でもとにかく、良くも悪くもこの衝撃は受けてみるべき。きっとあなたの人生変わります。

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 『谷中村滅亡史』から、百年が経過しているが、世界にも、人間にも、何か大きな変化があったというわけでもなさそである。『谷中村滅亡史』の記録を読めば、水俣、四日市、三里塚などで起ったことと実によく似ていることに気づくだろう。そして、若者もたいして変わったわけではなさそうだ。「運動」や「闘争」なんて、古くてダサいとタカをくくっているのは、実は私たちオッサン連中のほうかもしれない。



【参考サイト】
▽田中正造大学
http://www.zuisousha.co.jp/syozodaigaku/
▽田中正造 直訴状
http://www.aozora.gr.jp/cards/000649/files/4889_10240.html
▽現在の足尾銅山(足尾銅山観光)
http://www.miharu-e.co.jp/ja7fyg/kouzan/asio/asio.html
▽中尾ハジメ「環境ジャーナリズム」2001 −荒畑寒村『谷中村滅亡史』
http://www.kyoto-seika.ac.jp/nakao/class/journalism_2001/journalism_10_intro.html
【参考文献】
荒畑寒村『谷中村滅亡史』(岩波文庫)