5月5日は子どもの日。

 マルクス主義の祖マルクスと、実存主義の祖キルケゴールが、同じ誕生日だというのは、偶然にすぎないとはいえ、おもしろい。マルクス主義も実存主義も、ヘーゲル哲学の生み落とした双生児だった。キルケゴールは1813年デンマークの生まれ、1818年生まれのマルクスよりは五歳年長。ほぼ同時代人である。

 「リルケやカフカを喜び迎える人たちが、なぜこの二人を強く動かしたキルケゴールを迎えようとしないのか、私にはふしぎではならないのである」(桝田啓三郎「キルケゴールの生涯と著作活動」)

 私もキルケゴールはほとんど読んだことがない。私の周囲でも、ニーチェを読むものはいたが、キルケゴールは無視されていたに等しい。どんな大思想も、どんな美しい理念も、ヘーゲルの考えたように「人倫」「宗教」「国家」という制度によっては人間の魂を救うことができないのだ。たしかにその通りなのだが、「そんなものはうそだ」といってしまえば、救援連絡センターに支援をお願いできなくなってしまうだろう。
 若きキルケゴールが、レギーネとの婚約を破棄したのはよく知られている。キルケゴールは愛するがゆえに婚約を破棄したのだというのも、よく知られている。

 しかしキルケゴールの精神構造はどうなっているのだろうか。「私は彼女をすてたときに、私は死をえらんだのだ」とまで書いておきながら、キルケゴールは死ななかったのはよしとしよう。死にたいと思っても死ねるものではないし、死にたくなくても簡単に死は訪れる。キルケゴールが理解できないのは、死ぬまで彼女を愛することをやめなかったばかりか、彼女が人妻になってからも和解を求め続けて、著作を含めた全財産を彼女に帰すべきことを遺書に書き遺しさえしたことである。

 「もし私に信仰があったら、私はレギーネのもとにとどまったであろう」

 キルケゴールは、彼女の夫の資格を得るために、真のキリスト者たらんと、自己の苦悩と憂鬱とたたかい、信仰のために、血みどろの思想的格闘を戦いぬいた……というと、実存主義の入門書ぽくて、とてもかっこよいのではあるのだが、あまりにも身勝手で自己チューな言い分というものではないだろうか。

 しかしキルケゴールのすごいところは、死に至るまでその思想態度を徹底して一貫したことである。ある著作のエピグラムに、キルケゴールは、「みごと縛り首にでもなりゃ、へたな結婚なんぞしないですむというもの」というシェイクスピアのことばを掲げた。ヘーゲルによる「哲学」と「宗教」の「へたな結婚」に反対して、「縛り首」の十字架を経る以外に、真の哲学と宗教の結合はありえないのだと批判したのだ。

 若き日にヘーゲルの哲学と格闘したマルクスも、キルケゴールの同時代人である。キルケゴールのギレーネにあたるのが、マルクスには幼なじみで4歳年上の貴族の娘イェニーであろう。しかしマルクスは婚約を破棄したりしなかった。マルクスは1856年6月、妻のイェニーに次のような手紙を書いている。

 「フォイエルバッハ的人類への愛でもなく、モレスコット流の物質代謝への愛でもなく、プロレタリアートへの愛でもなく、愛する人、つまり君への愛が人間を再び人間にする」

 『経済学哲学草稿』で、受苦的存在である人間、その愛と情熱に語るマルクスと、キルケゴールは、どこか似通っている。そのことについて書きたいと思ったが、きょうはほかに予定もある。またの機会にあらためたい。