1995年4月28日、北朝鮮、平壌の5・1競技場で「平和のための平壤国際スポーツと文化の祭典」が開幕する。

 十数万人の市民を動員したマスゲームを主体にしたイベントであり、日本のプロレス団体も興業を行っている。日本からはアントニオ猪木(当時参議院議員)が来賓の挨拶に立ち、自らリングに立っている。このイベントに参加した旅行者のサイトに、写真も含めた貴重な記録がある。

▽マスゲーム
http://www.dia.janis.or.jp/~nasimoto/massg/masg.htm
▽プロレス観戦
http://www.dia.janis.or.jp/~nasimoto/puro/purores.htm

 数万人の規模で演じられる北朝鮮のマスゲームこそは、『主体思想』のもっとも「高度」な思想的表現だろう。電光掲示板かと見まがう、少年少女の掲げる色板で作られる背景画。少年少女たちは一糸乱れぬ統率のとれた行動で、「父なる首領様」「親愛なる指導者同志」への賛辞と忠誠を謳いあげる。
 もちろん、このような世襲的個人崇拝に基づいた全体主義は、それが左翼インテリの脳内のほかかつて地球上に存在したかどうかは別にして、「本来の」社会主義とは縁もゆかりもないものであろう。北朝鮮のマスゲームに影響を与えたのは、1960年代に創価学会が国立競技場で開催した「東京文化祭」だといわれる。60年安保における共産党に対する対抗感が、池田大作をしてマスゲーム路線に走らせたという証言もあわせて考えると、まことに興味深い。

 マスゲームの始まりは、チェコの体操団体ソコルだといわれる。第2次大戦前の最盛期には100万人以上の会員を擁したソコルの設立は1862年である。各国の共産党よりも歴史は古い。

 健康な肉体には健全な精神が宿る、……そして理想的な市民は、理想的な身体をもつことになるだろう。プラハにおける最初の体操機関は、病気や「障害」のある子どものリハビリを目的にして1840年に設立された治療施設だった。そして対象を子どもだけでなく大人にも拡大して、体操の中身もより一般的なもの変更したのが、チェコにおける近代的体育組織の始まりである。

 この体操機関には、はじめはチェコ系住民もドイツ系住民も一緒に活動していた。しかし1880年代に入ると、プラハにおけるチェコ系住民とドイツ系住民……比較的多数のユダヤ系を含む……の対立が深まり、「チェコ」というネイションとアイデンティティ、その団結力を示すための愛国的な結社に変わっていった。

 チェコのソコル運動においては、民族意識の覚醒とは、自由主義や民主主義の覚醒と同義なものであると見なされていた。人々は、体操を行うことによって、奴隷根性から自らを解放して、「自立した市民」(=チェコ人)になることができると考えられたのである。

 産業革命後の近代市民社会を形成する「装置」として大きな役割を果たしたのが、「軍隊」「工場」「学校」の3つの制度であったのは、フーコーなどの研究でよく知られている。よき兵士、よき工員、よき生徒になるためには、規則・秩序に従い、時間に従い、同じ動作を反復できる、型に嵌められた「従順な身体」(M.フーコー)を作り上げることが必要とされたのだ。

 「ところが規律・訓練的な権力のほうは、自分を不可視にすることで、自らを行使するのであって、しかも反対に、自分が服従させる当の相手の者には、可視性の義務の原則を強制する。」(『監獄の誕生』M.フーコー)

 ナスカの地上絵が空中からしか見えないように、マスゲームの少年少女は、自分自身の演技を見ることができない。すべては「将軍様」にむかっての演技である。マスゲームのなかでの「見る者」「見られる者」の非対称性ほど、フーコーのいう社会を監獄化する「一望監視方式」の権力を説明するのに適切な対象はないだろう。

 しかしひるがえって考えてみよう。私たちの社会は北朝鮮より「進んで」いるように見えるが、それはもはやベンサムのパノプティコンも、「将軍様」のマスゲームをもはや必要としないほど「監視社会」を完成したにすぎないのだとは考えられないだろうか。カナダの社会学者ライアンは『監視社会』(青土社)で、次のように指摘している。

 「シンガポールや日本のように国家目標が生活よりも重視されるというのは世界の他の部分では見られないことだが、このことが、スカンディナヴィア等の監視意識の高い地域では是認されないような、極めて押し付けがましい高レヴェルの監視を容認させている」(『監視社会』)

 今回の尼崎脱線事故では、JR西日本大阪支社が事故前の2週間、尼崎駅発着の全列車について1秒単位で遅延状況を把握する調査を行っていたことが報じられている。オーバーランによる運行遅延を取り戻すための暴走だったのではないかと推測されている。

 ここで問題にしたいのは、事故の原因究明ではない。このJR西日本の「遅延撲滅キャンペーンが、100名以上の人命を失う大事故があって初めて明るみに出たこと、そして労組もただ甘んじて受け入れてきた事実である。国家目標や経営目標が、生活や人命よりも重視されている社会は、何も北朝鮮のような「全体主義国家」ばかりではないのである。

【参考サイト】
▽「ある個人史」
http://www.dia.janis.or.jp/~nasimoto/index.htm#M1)
*日本が太平洋戦争に敗戦するした1945年までの11年間と、引き揚げまでの1年余、幼少年時代を朝鮮平安北道で過ごした方のサイト
▽徹底比較「創価学会と北朝鮮」
http://www.forum21.jp/contents/contents12-1.html
▽書評『イラストと写真で見るマスゲーム』
http://www.f-kid.com/mt2/archives/000063.html
▽体操運動におけるチェコ系社会とドイツ系社会の「分化」 (福田宏氏)
http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/publictn/89/contents-23.pdf