【ロシアの社会主義運動−9】
ネップについて、レーニンは明白に共産主義からの後退戦であり、農民との妥協であると認識していました。但し、彼は、商人の持つ調整機能に着目し、「良き商売人たれ」という言葉を残しています。彼は、共産主義に至る――恐らく当時のレーニンは、共産主義社会は計画経済で運営されると考えていた――には、長い長い市場経済の利用が必須だと考えるに至ったと思います。戦時共産主義でもって共産主義に至る条件はなくなった、と。そして、ロシアの穀物は世界市場で売れることに注目し、それで得られた外貨でもって、欧米の機械を輸入して工業を発展させようと目論見ました。レーニンは、世界市場に開かれたソ連をアピールしようとしました。スターリンが著した『レーニン主義の基礎』を読むと、レーニンはビジネスの方法はアメリカ流に合理的に進めようとしていたようです。彼は「浅ましいほどの実際家」でもあったのです。
しかし、ロシアはレーニンの「世界の資本主義に大幅に譲歩した」構想の道に進みませんでした。まず、レーニンは狙撃された傷と心労が元となり、五四歳の若さで早世しました。レーニン存命中に人事権――書記長という形で!――を握ることで党を支配したスターリンは、経済の機微については鈍感でした。レーニンの見込みとはやや異なり、市場経済の中ではまだ十分に回復したとは言えなかった工業の脆弱さは、農民が買いたいと思える工業製品を供給し切れず、また高いものでした。世界市場と比較した時の農産物の低価格、工業製品の高価格は鋏状価格差(シェーレ)と言われ、ソ連の経済バランスをいびつなものにしました。
結局のところ、スターリンは行政的・指令的な手段で解決することを選びました。そしてこれは後にソ連型計画経済=指令経済に帰着しました。それがどのようなものであったかは、様々な文献に譲りたいと思います。ちなみに、小生は、計画経済は「可能だけど経済官僚の意志に全てが帰着するという官僚独裁に陥るので、全面的にはやめたほうがいい」と思います。勿論、民間企業の運営なんかでは、計画経済めいたことが一杯行われているんですけどね。計画同士は緩く市場を介して結びつくくらいがいいんだと思います。
ソ連は市場経済の柔軟性を取り入れようとしましたが、余りにも強固に基礎的な部分に計画経済=指令経済が組み込まれていて、そこに手を加えようとゴルバチョフが経済改革に着手した際(ペレストロイカ)に、崩壊しました。下部構造を崩した結果、上部構造も吹っ飛んだと言えば、皮肉にもマルクス主義の法則に則っていたと言えるでしょうか。
レーニンの偉大かつ悲惨な革命は、一九一七年から一九九一年の間、ロシアを中心とした地においてシステムとして存在しました。ここまでくどくどとレーニンの革命について書いたのは、この革命には教訓が一杯あるからです。
(続)