青年大集会の記事なのだが、目を疑うことが・・・
もうこれで、共産党がブラック企業対策ができないことがわかるね。
穀田「御社では気に入らない社員をよく蹴飛ばすそうですが、そんなことしていいと思っているんですが?」
ブラック「いいと思ってますよ。あなたもやってたでしょ?早川さん呼びましょうか?」
穀田のみじめな敗北が目に浮かぶようではないかw
事情がよくわからない人は、下記電子書籍を買うと、「ぶっ」と笑えるようになりますよw
日本共産党や民青同盟、またやりよった……ぼやきのブログ
ちなみに生健会は、「共産党の支持団体」「共産党から資金を受けている団体」と見られていることが多い。この点に関して、大口氏は、
「そうではありません。生活と健康を守る会は会員の政党支持の自由を保障しています。私たちは会員の一致する要求で連帯して、その実現のために運動している市民団体です」
という。しかし生健会に関しては、選挙での協力が取りざたされることも多い。そこは、どうなのだろうか?
「政党選挙、たとえば総選挙や参議院選挙、地方選挙では、繰り返しますが、会員の政党支持の自由を保障し、会ぐるみで応援することはありません。一方、知事選挙や市長選挙で多くの団体や政党が支持して応援する場合があります。私たちは、その候補の政策が私たちの要求と一致すれば、党派を越えて応援しています。また、政党と協力する基準は、その政党が『社会保障について、これまで何をやってきたか』です。私たちは、協力できる政党と協力します」(大口氏)
「私たちの要求は共産党からの指令だから、必ず共産党の政策と一致する」といえば分かりやすいのにねw【イギリス、ドイツの社会主義運動−5】
一九一二年の帝国議会において、ドイツ社会民主党は第一党となっていました。但し、397議席中110議席であり、主導権を握るには至らなかったようです。そうではありましたが、支配的な階級の齎す国家イデオロギーは党員や議員に浸透していました。議員は国家権力を分与されることにより、国家に対する責任感を有するようになります。そのような状況で、マルクスによって「世界反動の砦」であるロシアと戦争状態になります。先ほど、逆説的に「労働者は祖国を持つべし」と書きましたが、社会民主党の、特に労働者上がりの国会議員にとって、ドイツ国家はすでに祖国であったように思います。ドイツ人は、権威主義的であり、統制に服しやすいことを、例えばマックス・ヴェーバーが『社会主義』で描き、警告していますが、社会民主党の多数派はこの統制の力を、「国家を守る(祖国防衛)」ために利用しました。先ほど労働者上がりは右派を形成しやすいことを指摘しましたが、労働者の党は労働者を多数派として国会に送りこんでおり、社民党はそのような党になっていました。戦争を進めるには、戦費が必要です。その調達のために戦時国債が発行されることになりましたが、ドイツ社会民主党は、たった二人を除いて、戦時国債に賛成しました。既に、ドイツの労働者の党は、植民地支配に賛成しているという、左翼の原理原則から言えば犯罪的なことに手を染めていましたが、今度は戦争に賛成したのです。党は戦時国債に賛成するように、議員に要請していたのです。その背景には、労働者大衆の戦争に対する熱狂・支持がありました。
反対した社会民主党の国会議員は、前に挙げたローザ・ルクセンブルグと、カール・リープクネヒトという左派二人だけでした。これは、反党行為です。党を牛耳っていた右派は「党の統一を乱した」と激怒します。リープクネヒトは除名され、戦争時に「兵役拒否を扇動した」との理由で投獄されていたルクセンブルグは獄中から指令・指導を発し、スパルタクス団という党内分派(左翼組織)を作ります。後にこれはドイツ共産党となります。ちなみに、法王・カウツキーは党の統一を確保するために右派と左派の間を取り持とうとしますが挫折、エンゲルスの一番弟子であるベルンシュタインとともに独立社民党を作り、スパルタクス団と一時は行動を共にします。独立社民党とスパルタクス団は水兵の蜂起などを指導し、「労働者・兵士評議会(レーテ)」を成立させてドイツ革命を成立させます。この成果に社民党も乗りますが、ここで重大な裏切り行為が起こります。社民党のトップ、右派のエーベルトはスパルタクスなどの左派を快く思っていませんでした。ドイツ革命により、ドイツは敗戦国となっていましたから。彼は国家主義者や右翼の間で義勇軍を募り、法の秩序の回復という名目で、急進左派であるスパルタクス団の大虐殺を行ないます。それらは、社民党の作った法律により、「合法的に」行われました。この行為に、先ほど名前を出したヴェーバーも賛意を示します。小生が思うに、革命時に旧態依然とした「秩序」に与することは、反革命に与することに他なりません。それ故に、社会学の開祖であるマックス・ヴェーバーに対する左翼の評価は必ずしも良いものではありません。ともあれ、ドイツ革命とその挫折には、学ぶべき教訓が多数あると思います。革命は、正統性などに縛られてとどまるならば反革命により血の海に沈められること、労働者大衆は、革命的情勢にあるからと言って、必ずしも革命側に組するわけではないこと、社会主義は国家主義と馴染みやすい危険があること。繰り返しになりますが、革命とは、暴力という名の鉄の法則に縛られるものであり、暴力の担保なくしては貫徹できないのです。
これらの教訓を、先取りしていたかのような天才が、一八七〇年、ロシアに生まれていました。ウラジーミル・イリーイッチ・ウリヤーノフ、通称レーニンです。
(続)
【イギリス、ドイツの社会主義運動−4】
一人目はカール・カウツキーです。ベルンシュタインの主張について、歴史を振り返って正当性があることを認めつつも、しかし、国家権力に対する外部性が残ることを考慮しました。彼は、エンゲルス亡きあとのドイツ社会主義労働者党のイデオローグとして活躍しました。この緻密な頭脳の持ち主は、ドイツにおいて現実的には革命の可能性がなくなっていっても、あくまでも労働者階級は国家の外部にあるという論理を否定しませんでした。二人目はローザ・ルクセンブルグです。彼女は革命運動だからこそ、労働者階級は能動的に状況を変えようと精力的に動くという観点から、党から革命の二文字を消すことは断じてならない、と考えました。労働者の勢力、能動性、主体性が大事だという観点は、後に触れるであろうレーニンと共有していると思います。ベルンシュタインは「革命の可能性はなくなった」と考えたので右派、カウツキーは「革命の可能性もゼロではない」と考えたので中間派、ローザは「革命こそが生命である」と考えたので左派と言ってもいいでしょう。
さて。『共産党宣言』には「労働者には祖国はない」という言葉があります。この文章はそのまま受け取ってもいいのですが、この宣言が出された当時、労働者は国家の運営から完全にと言っていいほど排除されていたことに注意しますと、こう言い換えることも可能だと思います。「労働者は祖国を獲得すべし」と。すなわち、外部から内部になれ、と。歴史はそのように進んでいるようにも見えますが、まだまだ国家意思の決定の肝心な部分からは労働者は排除されているようにも見えます。どうしてそれが可能なのでしょうか。
ここでもう一つの言葉を『共産党宣言』から紹介しましょう。「ある時代の支配的な思想は、つねにその支配階級の思想にすぎなかった。」このあたりの事情は、マルクス主義から少し離れて、ミシェル・フーコーが詳しく考えているようですが、小生はそんなに詳しくないので、マルクスの言葉に即して考えます。物事の考え方=イデオロギーは、下部構造に即して形作られる上部構造の一つであるとは良く言われます。それは、往々にして、支配階級にとって都合の良いものとして形作られます。社会的な規範は、社会が上手く回る=支配階級にとって上手く回るように出来ます。なぜならば、支配の論理というものは、それに従わない人間に、隠然と、あるいは公然と暴力——社会的強制力——を行使し、そして歴史を通じて支配の論理を構成員に内面化させるからです。こうして内面化されたものを規範と言います。一旦内面化されると、中々疑問を持つことはありません。だが、規範と現実、あるいは理想がぶつかることもあります。それこそが、改良や革命などの改革へのきっかけになります。それはどのような理路で改革に進むことが出来るのかを考えてみましょう。そういうぶつかりは、個々人によって気づかれます。その経験は、対話によって他人と共有され、具体的な対策も思い浮かぶならば、改革のために動くこともあります。しかし。この理路自身も批判の俎上に上げられることもあるでしょう。また、「ぶつかり」自身が、複雑化した社会においては余りにも多数で、簡単には問題として共有化されにくく、また、改革するよりは、今までの規範——惰性というべきかも——のままでよいと考える人のほうが、大抵多数派だと思います。哀しいことですが、人間は基本的に、成功するかどうか分からない改革よりも、惰性を選ぶものだと小生は思います。歴史を見ると、「誰の目にも、極端なまでに」問題が持ち上がらなければ、具体的な改革にまで突き進まないように思えます。
こういう次第ですから、先の先まで見通せる知性をもったインテリは、鋭い感受性でもって現実の規範を撃ち、左派になびきやすく、現実の中で規範——常識と言ったほうがいいかも知れません——で打ち鍛えられた労働者は、右派になびきやすいと言えると思います。少なくとも、一九世紀末から二十世紀初めにかけてのドイツの社会主義労働者党はそのようになりました。
ここで第一次世界大戦が起こります。
(続)
@busayo_dic 僕のプランは「闘う」。編集者と協議、いくつかの書店で店員の意見も聞きました。書店は「たたかう」のほうが手にする人が多いといいます。それでも「闘う」にしてくれとしばらく思案。サブタイトルが漢字9文字。バランスが悪いかなと結論。ひらがなで妥協という経過です。
— 有田芳生 (@aritayoshifu) September 20, 2013
【イギリス、ドイツの社会主義運動−3】
社会主義者鎮圧法は、最初は効果がありました。しかし、団結の力を見せる労働者階級と労働者階級は、徐々に勢力を伸ばしていきました。こんな法律があったら、社会主義者に関わらないようにするであろう多くの日本人と、イデオロギー大好き民族であるドイツ人は違うようです。そんな法律お構いなしに、議会に社会主義者を送り込みます。それも、選挙のたびごとに人数が増えていくという・・・。また、そんな法律で抑えこむよりも、色々と認めたほうがいいと、カイザー以下の支配階層は考えていたとも思います。ビスマルクが死去し、一八九〇年にはカイザーがこの法律を廃止します。(正確には更新せず)
このような状況の時代ですが、同時に革命に関する見解も色々と変わったようです。まず、暴力革命の王道とでも言うべき当時のイメージは、バリケード構築、武装蜂起、暴力による有力者の逮捕、追放、政権獲得です。権力の外部に置かれた民衆は、自らを組織し、武装し、権力を丸ごと暴力で破壊し、追放し、新たな権力を打ち立て、自らが権力の内部になる。そんな感じですね。だが、権力側の武装も充実し、権力の外側の武装を圧倒するようになりました。一九世紀後半も差し迫り、エンゲルスが死去する前、彼は「バリケードによる武装闘争、権力奪取の時代は去った」と言います。かの王道のような形での権力奪取は、権力による鎮圧を招くだけで勝利出来ないであろう、と。将軍とあだ名され、実際に戦闘にも参加した老革命家であり、暴力革命の推進者でもあったエンゲルスは、ドイツをはじめとする西欧での暴力革命を、軍事的観点から否定するようになっていたと思います。
議会を通じた各種闘争の可能性にエンゲルスは論及します。これは、見方を変えれば、社会主義運動や労働者運動=階級闘争の体制内化を認めていることになります。このような動きに関して、それを裏打ちするようなイデオロギーが、ドイツの社会主義労働党者——当時のドイツの社会主義者の党——に現れます。エンゲルスの一番弟子とも言われた、ベルンシュタインによる修正主義です。上のエンゲルスの説を踏まえた理論です。彼の書物『社会主義の諸前提と社会民主主義の任務』を要約すると、「階級の二大分化——マルクスの理論によると、極一部の大金持ちの資本家と、圧倒的多数の貧乏な労働者に階級が分かれるとされた——はついに起きず、議会を通じた変革は現実的となった、革命は今や非現実的な余計なものとなった」と。漸進的な改良で全てが上手くいく、というわけです。それに対して、激怒する人々が現れました。
というのは、確かに労働者の運動は議会を通じて進むことが歴史的に示されたし、その成果を通じて、絶対的な貧困はなくなるか著しく減少し、総体として労働者階級の生活状態は向上した。だけど、貧困問題の根本にある私的所有——特に、生産手段の私的所有——の問題には手つかずだし、そこに手を触れようとすると、資本家は激烈に我々を排除するであることは、明らかではないか、そのもっとも根幹にかかわることをなそうとすれば、暴力(を担保した)革命以外に道がないのではないか、と。この反論も尤もに見えます。社会主義者が体制内化して、「認められた」としても、根幹に触れると無力化される、というわけです。
この論争で、二人の人物が台頭します
(続)
台風18号による紙屋川上流の開キ町の氾濫、二年続きの床上と床下浸水。夜中に連絡を受けて駆けつけ、お見舞い。朝は被災者のお宅を訪問し、復旧のお手伝いを申し出ると「去年も来てもらって助かった。今年もお願いしたい」と。苦難軽減に役割発揮を。 pic.twitter.com/0d7licvSqG
— 井坂博文 (@hiroisaka) September 16, 2013
【イギリス、ドイツの社会主義運動−2】
というのは、当時のドイツ帝国は労働者の運動に妥協していても、ビスマルクによる社会主義者鎮圧法(1875年制定)により、労働者階級の利益を代表するとされる社会主義者の政治参画を禁止していたことが理由に挙げられます。帝国にとって、労働者は考慮の範囲には入っていても、政治の意思決定においては、外部に留めていたからです。ここで、非常に大事な観点があることを書いておきたいと思います。すなわち、政治参画の内部/外部という問題です。当時のドイツは、皇帝(カイザー)を冠した帝国で、選挙に基づいた議会が生まれ出した頃に相当します。普通選挙と議会があれば、民主主義の態勢は整っているので、民主主義があると言えなくもありません。しかし。E.H.カーによると、民主主義は「共通の前提」を、構成員に要求します。この場合は、選出される人は、社会主義者であってはならないこと、が条件になります。というのは、帝国の法律により、社会主義者は取り締まられることになっていたからです。このようにして、この時代のドイツ帝国は、表向きは社会主義者を排除することで成り立つ民主主義を採用していた、と言えます。民主主義は共通の前提を構成員に要求する、ということは、これに従わない者は構成員になれないことになります。
こうして、帝国議会の外部に社会主義者は留め置かれることになりました。勿論、外部にあっても、議会に対して様々な影響力を行使することは可能です。しかし、直接的に社会主義者や労働者階級の要求を議会に提起し、飲ませることは出来ません。そうなると、直接飲ませられるようにするならば、内部に入り込ませるように社会的強制力――通常は暴力という――にモノを言わせるか、あるいはそのような議会を破壊し、別途、労働者階級や社会主義者のためのシステムを作るしかありません。後者は言うまでもなく革命です。前者も、考えようによりますが、社会的強制力によってコトを成す、ということでは、革命と言えなくもないでしょう。というのは、支配的システム内のルールの外部から、暴力によって物事を進めるわけですから。このように、革命というものは、外部における力――暴力――によって、変革を成し遂げる側面があります。但し、注意して欲しいのは、このような革命は、政治権力を握る過程での革命であり、「政治革命」に関することだ、ということです。むき出しの、あるいは隠然とした社会的強制力――暴力――を担保しなくては、政治革命は不可能であり、そして、それは同じ「革命」という言葉を用いている「社会革命」とは異なる点がある、ということを強調したく思います。
エンゲルスが指導していた時代のドイツの社会主義運動は、このような状況の下にありましたから、当然体制内部の運動になり得ないとエンゲルスが考え、それ故にドイツの社会主義運動、それを支える労働者運動は革命運動であるとエンゲルスが考えたのは当然のことでした。
では、社会主義者鎮圧法のもとでの、ドイツの社会主義運動はどうなったでしょうか。
(続)
【イギリス、ドイツの社会主義運動−1】
副題を変えます。
イギリスの労働者は団結しました。結集軸は労働党ですが、その支持母体となったフェビアン協会について簡単に説明します。元々は知識人(インテリ)が、より良い生活を求める団体として発足した団体で、国内の諸問題を扱ううちに、労働問題にも関心を深めていきました。その結果、労働党を生み出すに至ります。但し、フェビアン協会や労働党は、イギリスの歴史から生まれたことに注意する必要があるでしょう。名誉革命以降、大規模な流血の事態を避ける歴史を有する——勿論、カトリックなどの少数派に対する苛烈な弾圧があったことは言うまでもないですが、これは民主主義の持つ恐るべき本質について触れるときに記します——イギリスは、王が権利を制限されるような事態を、王自らが認めていく歴史を有します。結果、今や「君臨すれども統治せず」の伝統が作られ、余程の事態がない限りは議会に対する拒否権を発動しません。逆に言えば、力を見せつければ、相手はその力を尊重する歴史があるとも言えます。このような国で、何もかも爆破し、根本から作り変えるという手間を要する革命が、民衆によって欲せられるでしょうか? フェビアン協会のインテリと、それに支持された労働党、そして労働党を支持する労働者は、革命ではなく、王から権力を奪った議会に承認を与え、自らの権利を擁護するために、王国で地歩を固め、要求を通していきます。
イギリスの労働者は、革命という爆破作業を選ばずに、改良の道を選びました。小生にとって馴染みのある言葉で言えば、イギリスの労働者は体制内化することを選びました。体制内化とは、自分たちが国家の中で、一定の力と地位を体制に認めさせて、その枠内で権力を分与されて、行使することです。そのためには、既得権益を有する側——支配者層と言っていいかも知れません——が、新たな勢力の力を認める知性と、受け入れる理性を獲得していることが必要だと小生は思います。あるいは、新興勢力を排除した時に、どのような恐るべき結果になるかについて洞察する知性も。
勿論、そういう道を選ばなかった労働者は世界中にいます。マルクスの祖国、ドイツを考えましょう。マルクス存命中、ドイツの労働者はマルクスの喧嘩友達とでも言うべきラッサールの強い影響を受けていました。彼は労働者自らが起業し、生産組合を設立し、そのために国家権力を利用すべきで、この動きに国家権力を服するためには、労働者に普通選挙権を与えるべきだと考えました。ラッサールの社会主義は、国家資本主義とも言われますが、先に書いた体制内化を要求するものでもありました。そして実際に、ラッサールは鉄血宰相・ビスマルクとも親交があり、ビスマルクの政治のうちのいくつかは、ラッサールの提案によるものと言われています。それは、労働者の団結権——ストライキや労働組合を認めること——、社会保障制度の実施。そして、普通選挙権(北ドイツ連邦)。イギリスの労働者が同時代には獲得していなかったものを、すでにドイツの労働者は獲得していたとも言えます。
しかし。マルクスの盟友であるエンゲルスがラッサールの不幸な死の後、ドイツの労働者階級に多大な影響を与え始めた時、ドイツの労働者階級は体制内に留まれないであろうと訴えはじめました。
(続)
【辞書によると?−3】
産業革命というと、世界史で学ぶのが、ニューコメンが発明し、ワットが改良した蒸気機関を思い出す人が多いですね。近年では、IT革命もその一つでしょうか。流通革命というのは産業革命の一部と小生は思います。産業革命が起こす展開は以下のとおりと考えます。ある革新的な技術――最近では破壊的技術という言い方もしますね――が広まることによって、それまでと比較して、圧倒的に安価かつ大量のサービスや財を提供すること。そして、そのことを通じて社会の在り方を変えてしまうこと。すなわち、「社会の在り方を変えてしまうこと」なので、これは社会革命の一つだと考えていいと思います。上の『共産党宣言』の文章の中では、生産手段と交通手段の発展に当たるでしょうか。社会革命は、漸進的でもあり、急激――場合によっては断絶と言いたい現象もある――でもあります。そしてこの革命は、下部構造の革命です。
それに対して、上部構造の革命は? 『共産党宣言』では、「爆破」という言葉が使われています。過激ですね。封建制度では、例えば西欧では王権神授説に基づいた王制ってのは、権力を維持し続けることそのことが自己目的化していて、自分たち以外が政権に就くことは想定されておらず、それ故に政権交代というものは、武力を伴うものでした。というのは、力づくで古い王制を排除するしか方法がなかったからです。封建制度の打倒という革命も、排除の方法としては、基本的に武装を伴うものでした。勿論、議会を承認して、自分たち以外に国家を代表する者に国王が承認するという変革方法を取った国もあります。例えば、イギリス(連合王国)ですね。それとても、長年に渡る闘争の果てに、武力を背景にしたものでした。上部構造の革命は、暴力を担保にしたものであることは、歴史を観察すれば分かると思います。
イギリスは知恵に富んだ歴史を有する国だと小生は思います。マルクスは、当時資本主義が最も発展していたイギリスで共産主義革命が始まると考えていたと思います。しかし、そうはなりませんでした。さて、マルクスの分析によると、資本主義の発展=生産手段の発展は、少ない労働力でモノを生産することが可能になるから、労働者は時代と共に不要となることを示します。失業者の増大は貧困層を拡大するとされます。彼らは黙っているでしょうか? 団結してコトに当たったことは歴史的事実です。イギリスは世界に先駆けて労働者運動が起こった国です。マルクスは、しかし、連合王国では労働者の意志は政治に反映されず、実力でもって支配層である王室、貴族、資本家を吹っ飛ばすしかないと考えていたようです。そのためには労働者の団結、ひいては武装蜂起でその団結の力を見せつけ、「吹っ飛ばす」と。繰り返しになりますが、歴史はそのようになりませんでした。
(続)