1775年4月19日、ゲイジ司令官の率いるイギリス軍700名、コンコードの武器弾薬を押収するため出動。パーカー大尉の率いる独立派部隊がコンコード、レキシントンで武装衝突。アメリカ独立戦争の開始(1775〜1883)。

 まず、山川の世界史風に(?)、アメリカ独立史をおさらいしてみよう。

 イギリスの植民地であったアメリカは、1760年代から本国政府によるあいつぐ重い税負担の要求に苦しんでいた。この例にあげられるのが、1774年 12月の「ボストン茶会事件」(Boston Tea Party)である。東インド会社に茶の独占販売権を与えた「茶条例」に抗議したボストンの商人たちは、先住民モホーク族をまねた衣装に扮装して、港に停泊中のイギリス船に進入、紅茶の船荷を海に投棄したのだ。
 独立運動の指導者の一人パトリック・ヘンリ(1736−1799)の1775年3月の植民地協議会における演説のなかの「われに自由を与えよ、しからずんば死を与えよ」は、日本の自由民権運動にも影響を与えた有名な言葉である。イギリスと植民地の武力衝突は不可避なものになっていた。そして1775年のきょう、レキントンとコンコードの戦いをもって独立戦争の火ぶたが切られる。

 ワシントンが指揮した独立軍は初め苦戦を強いられた。当時のアメリカは、独立を支持する愛国派(パトリオット)、王党派(ロイヤリスト)、中間派の三者入り乱れていた。しかし、愛国派が世論の主導権を握ることができたのは、アメリカ独立革命のバイブル、トマス・ペイン(1703−1809)の『コモン・センス』の力であった。1776年起草のアメリカ独立宣言の自然権・革命権の主張には、このペインの強い影響が認められる。

 ワシントン軍はサラトガの戦い(1777年10月)でイギリス軍数千を降伏させて、ようやく反攻に転じる。この勝利により、1778年にフランスはアメリカ合衆国を承認し、米仏同盟を結んでイギリスに宣戦して参戦した。このとき、義勇軍として独立戦争に参加したフランス人のなかには、のちに「空想的社会主義」の先駆とされるサン=シモンらの名もあった。

 この独立戦争はたんに植民地の独立にとどまらず、近代的な共和政体を実現した市民革命でもある。それゆえアメリカ独立革命(American Revolution)と同義に扱われる。

 現在、ボストンの独立戦争の史跡は、「フリーダムトレイル」(自由への道)として整備されている。ウォーターフロント地区には、当時の東インド会社船を復元して、ボストン茶会事件船・博物館として一般に公開されている。この船のデッキからは、独立時代の愛国派のようにロープにつながれた茶箱を自由に海に放り込むことができる体験コーナーもある。

 しかし、愛国者たちはどうして紅茶を海に投棄したりしたのだろう? 

 イギリス議会の可決した「茶条例」は、東インド会社が茶を植民地へ出荷する際には、徴税を免除することを定めたものである。これは当時破産しかかっていた東インド会社を救済する政策であり、販売権は独立に反対する王党派(ロイヤリスト)の商人が握っていた。愛国派がこの茶条例をボイコットしたのは、実のところ、植民地の商人たちがオランダから茶を密輸していたからだ。1764年の砂糖条例も、税率を引き下げる代わりに密輸の厳重取り締りによって関税収入の確保をはかるためのものだったのである。

 この背景には、1763年、フレンチ=インディアン戦争(七年戦争)の戦費負担をめぐる巨大な戦時負債の問題がある。植民地は防衛の大部分を本国の正規兵に頼り、十分に協力しなかったのに、フランスと先住民への勝利で巨大な利益を得たのだから、戦費の負担は当然だというのがイギリスの言い分である。

 植民地人の憤激を一挙に高めたのは、1765年の印紙条令であった。法律・商業上の証書・証券類・パンフレット、新聞、広告、暦、カルタ、酒類販売許可証などすべてに印紙税を課したこの条令は、植民地の自治の侵害と受け止められたのも当然である。9植民地の代表がニューヨークに集まって印紙条令会議を開き、有名な「代表なくして課税なし」の原理を表明した反対決議を採択する。

 しかし黒人奴隷や先住民にとってみれば、愛国派も王党派も「どちらもどちら」だったろう。奴隷制廃止を目標に掲げる協会も設立されてはいたが、すべての「人間」は平等とする独立宣言の、その「人間」のなかには、先住民や黒人奴隷は入っていなかったのである。

 英仏のアメリカ収奪戦争「フレンチ・アンド・インディアン戦争」で、先住民がフランスに味方したのも、フランス人のほうがまだ罪が軽く、数も少なくて、それだけに害が少なかったからである。150万人のイギリス領植民地人に対してフランス人は9万人。さらにイギリス人は先住民を追い払って土地を奪い、畑作で自然を破壊したが、フランス人には罠猟師が多く、関心のあるのは毛皮交易だった。

 この戦争では、一説にはオランダ人入植者が始めたとされる頭の皮剥ぎがイギリス人のあいだで人気があり、イエズス会のフランス人宣教師の頭皮には100 ポンド、デラウェア族の有力な首長の頭皮には200ポンドの報奨金が支払われたという。オタワ族との戦いでは、和解と見せかけて天然痘患者が使用した毛布を贈与して、多数の先住民を罹病させた。これが世界の細菌戦の始まりとされている。
 
 たしかに、アメリカ独立革命は、『資本論』のマルクスがいうように、ヨーロッパ革命に最初の衝撃を与えた。1789年のフランス大革命である。アメリカ独立戦争に協力したフランスは国威を大いに高めたが、そのための国家支出も莫大なものになった。財政難を乗り切るために、フランスは8〜10%の利息で国債を発行しつづけた。国庫が破産に近づくに比例して、自由と平等に対する関心も高まり大革命に至るのである。

 アメリカに紅茶を売りつけることに失敗したイギリスと東インド会社は? 中国からの茶の輸入増加による銀の支払いに苦しんだ東インド会社が始めたのは、ベンガル地方の農民にケシを強制的に栽培させて、中国にアヘンを持ち込むことだった。このアヘン貿易から、アヘン戦争が勃発するのである。

 さらに、中国以外の土地で茶を栽培、自給し、他国へも輸出するために、植民地インドで紅茶生産を開始する。茶のモノカルチャー(単一栽培)が強制されたインドでは、わずかの天候不順や不作がきっかけで大飢饉が生み出される、飢餓の構造化が進行していったのである。

 アメリカ独立革命は、人民主権、抵抗権と革命権、平等、言論、出版の自由など、民主主義の諸原則の礎を築きあげるものだった。同時に、欧米の主権国家システムが確立してきた歴史過程は、西欧帝国主義が非西欧世界を植民地化して、支配していく過程と切り離すことはできない。社会契約理論が前提とした「自由」「自然権」「人間」などの根拠について問いかけてみよう。現代におけるアメリカ型自由主義の功罪も、アメリカ建国当時からはらまれていたものだったのである。