1928年4月18日、京都帝大教授の河上肇が辞職を迫られ、依頼免官となる。

▽『資本論入門』第二分冊への序言
 第一分冊を公にして間もなく、私は大学から退くことになつた。『私はむしろ喜んでこの機會を捉へ』、今後しばらくはこの『入門』をもつて大学の講座に代へようと思ふ。
 第二分冊は『資本論』の本文冒頭数行のためにその全部をさゝげた。私は読者が私の此の如き多辯を咎めざらんことを望む。『入門』は奥に進むに従つて益々簡単にする豫定であるから。
 昭和三年五月五日   河 上  肇
http://www.ksky.ne.jp/%7Ehatsu/hajime/

 河上肇(1879−1946)は、山口県玖珂郡岩国町に生まれる。東京帝国大学法科大学政治科に入学。足尾銅山鉱毒事件の演説会で感激し、その場で外套、羽織、襟巻きをすべて寄付したエピソードはよく知られている。1902に年大学を卒業後は、農科大学講師などのかたわら、読売新聞に経済記事を執筆。

 1908年、京都大学の講師の職を得て学究生活に入る。1916年から『貧乏物語』を連載し、大正デモクラシーの中、ベストセラーになった。

 その後、マルクス経済学に対する傾斜を深めて、1921年に河上が執筆した論文「断片」のため、雑誌『改造』は発売禁止となるが、この論文は難波大助に影響を与えたという。

 1922年、櫛田民蔵によりマルクス主義解釈は間違っていると痛烈な批判を受けてからは『資本論』などマルクス主義文献の翻訳を進め、当時の学生に大きな影響を与えた。1928年の筆禍により大学を辞職した後は、大山郁夫のもと労働農民党の結成に参加する。

 1930年京都から東京に移ってから、労働農民党と決別して、1932年より日本共産党の地下運動に入る。1933年、中野区で検挙され、治安維持法違反で検挙、非転向のまま下獄する。

 「ろ、牢屋は暗い。暗いばかりか、冬寒く、夏暑く、臭く、百万の蚊群。たまったものでない。牢屋は、之(これ)は避けなければいけない。けれども、ときどき思うのであるが、修身、斉家、治国、平天下、の順序には、固くこだわる必要はない。身いまだ修らず、一家もとより斉(ととの)わざるに、治国、平天下を考えなければならぬ場合も有るのである。むしろ順序を、逆にしてみると、爽快である。平天下、治国、斉家、修身。いい気持だ。私は、河上肇博士の人柄を好きである。」

 ▽太宰治「懶惰の歌留多」
 http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/279_15089.html

 よく考えると、河上肇と太宰治が共産党の非合法活動に参加した時代は重なっている。二人の接点はわからないが、今わかるのは、太宰のオルグを担当したのが、東大生で、青森中学・弘前高校で三年先輩にあたる工藤永蔵だったということである。ちなみに工藤は、当時の日本共産党中央委員長の田中清玄の弘高同期にあたる人物だった。太宰は党員でなかったといわれるが、かなり特別なシンパであったことはまちがいない。

 年譜によると、太宰はこの作品を第2次世界大戦の勃発した1939年に発表されている。この時期に「河上肇を好きだ」と公言して、「修身」よりも「平天下」が先であろうと、皇国イデオロギーにインネンをつける心境やいかに。半端な気持ちでなかったことだけは確かである。何しろ翌年の文学者アンケート「文学者として近衛内閣に要望す」(『新潮』1940年9月号)では、太宰はこともあろうに、ただ一言だけ、<唯物史観の徹底検討>と答えているのである。非転向を貫いた河上博士に対する、ひそかな連帯の表明であったのかもしれない。

▽太宰治とコミュニズム
http://comet.tamacc.chuo-u.ac.jp/dazai/communizm.HTM