1975年4月17日、カンボジア共産党(ポル・ポト派)が率いる民族統一戦線がプノンペンを制圧。カンボジアゼロ年。
政府軍は降伏しロン・ノル政権が倒れる。国名は民主カンプチアと改名した。プノンペンの市民は平和の到来に歓喜の声をあげ、パレードが自然に起こった。しかし最初の犠牲になったのは、このプノンペンの市民たちであった。
プノンペンから強制移住させられた人びとは、堤防や森林を開墾する強制労働のなかで、体力のない老人や子供・病人からことごとく倒れていった。ポル・ポト政権は3年9ヵ月の間に150万とも200万人ともいわれる民衆を虐殺する。
ポル・ポトの蛮行は、良心的な左翼が眉をひそめて語るように、「社会主義とは関係ない犯罪的な集団の狂気」だろうか。しかし、ヴェトナム反戦闘争の昂揚のなかで、インドシナ革命を称賛して、「第三世界人民の闘い」に合流しようとした過去を、もう忘れてしまったらしい。今もなお、革命や社会主義を肯定的に語ろうとするのならば、このポル・ポト問題は避けて通るわけにはいかないだろう。
政府軍は降伏しロン・ノル政権が倒れる。国名は民主カンプチアと改名した。プノンペンの市民は平和の到来に歓喜の声をあげ、パレードが自然に起こった。しかし最初の犠牲になったのは、このプノンペンの市民たちであった。
プノンペンから強制移住させられた人びとは、堤防や森林を開墾する強制労働のなかで、体力のない老人や子供・病人からことごとく倒れていった。ポル・ポト政権は3年9ヵ月の間に150万とも200万人ともいわれる民衆を虐殺する。
ポル・ポトの蛮行は、良心的な左翼が眉をひそめて語るように、「社会主義とは関係ない犯罪的な集団の狂気」だろうか。しかし、ヴェトナム反戦闘争の昂揚のなかで、インドシナ革命を称賛して、「第三世界人民の闘い」に合流しようとした過去を、もう忘れてしまったらしい。今もなお、革命や社会主義を肯定的に語ろうとするのならば、このポル・ポト問題は避けて通るわけにはいかないだろう。
なぜ、ポル・ポト派が政権を担うことができたのだろうか? なぜポル・ポト派は生き延び、カンボジアでは激しい内戦が続いたのだろうか? 「東洋のパリ」「平和のオアシス」といわれたカンボジアが、どうしてこの世の地獄と化してしまったのであろうか。
これについては、残念ながら、まだ十分な検証がなされているとはとてもいえない。
ポル・ポト政権がなぜ生まれたのか? カンボジアの国民の大多数を占めるのは農村社会である。政治には無関心で、シアヌークを支持していたのがこの農民たちである。共産主義や革命ということばはおろか、ポル・ポトの名前さえも知らなかっただろう。
カンボジアの川には、雨季に逆流する川(トンレ)と逆流しない川(ストゥン)の二つのタイプがある。モンスーン季になると、メコン川は氾濫して、最大の支流であるトンレサップ川は逆流してトンレサップ湖に向かい、湖面の広さは乾季の10倍にもなる。ここでは同じ住民が乾季に農業を営み、雨季には漁業に精をだす。
このような自然条件においては、大規模で近代的な農業は発展しようがなかった。しかし土地はすべて王の所有物ということになってはいたが、実際には開墾すればその農民の所有物とすることができた。農民たちは独立した自給自足の生活を送っていたのである。
ここに「アジア的生産様式」(マルクス)に基づいた、農村共同体のプロトタイプを見てとることもできるだろう。晩年のマルクスは、西欧中心の進歩主義史観を修正して、ロシアの社会主義者ヴェラ・ザスーリッチ宛の手紙で「遅れたロシア」の農村共同体に、「ロシア社会再生の要素と、いまなお資本主義制度のとりことなっている諸国に対する優越性」を認めたのだった(『資本主義的生産に先行する諸形態』国民文庫)。
このマルクスのことばは、ロシアやアジア諸国における農業共同体が、資本主義的発展段階を通過することなく、コルホーズ農業に転化される可能性を検証するものとされた。しかしその現実は、私たちが知るようにソ連の集団農業化の悲劇である。
しかしポル・ポトの蛮行を、「アジア的専制」「後進国革命」の限界や歪曲ととらえる議論は、カンボジアも現代史のなかにあることを没却しかねない。
留学中にフランス共産党に入党したポル・ポトは、1950年にユーゴスラビアのザグレブで労働工作隊に参加したという(ユーゴスラビア・ジャーナリスト代表団との会見、1978年3月17日)。若き日のポル・ポトと、1948年のユーゴ・ソ連論争を経て、自主管理型社会主義や非同盟主義外交の独自路線を歩んだチトー社会主義に接していることは、注目に値する。またポル・ポトは、カンボジア共産党の世代交代を牽引した、広い意味での「新左翼」世代である。
インドシナ三国の共産党は、1930年10月、当時のコミンテルンの方針によって結成された「インドシナ共産党」がルーツである。最初はホ・チ・ミンの指導のもとに活動していたが、1951年6月、ヴェトナム、カンボジア、ラオスの三つの「国民共産党」に分離することを決定する。
しかしカンボジア共産党は、ヴェトナム共産党と協調路線をとるグループ(クメール・ハノイ)と、ヴェトナムと対立するポル・ポト派(クメール・ルージュ)とに分裂する。
この背景には第1次インドシナ戦争があった。戦後、カンボジアは戦前と同様にフランスの保護下におかれた。これに対して、カンボジアでも、ヴェトナムやラオスと同様に民族解放闘争が起きる。1954年、第1次インドシナ戦争の終結を定めたジュネーヴ協定は、民族統一戦線クメール・イサラク(自由クメール)のための集結地を認めなかった。クメール・イサラクの法的・政治的権利は国際監視管理委員会が保護するとされたが、クメール人民革命党(カンボジア共産党)の指導者たちの多くは北ベトナムのハノイに亡命した。
この結果、クメール人民革命党の主要な指導者が欠けることになった。その政治的空白の時期に、特に首都プノンペンの党組織の中核を担うことになったのが、ポル・ポトをはじめとしたフランス留学経験のある当時20代の青年指導者たちだったのである。
他方、「クメール・ハノイ」(ハノイのクメール)と総称されるようになった、北ヴェトナムに亡命したクメール人共産主義者たちがカンボジアへ戻るのは、1970年の民族統一戦線の結成を待たねばならなかった。
ポル・ポト派の通称である「クメール・ルージュ」(赤いクメール)は、シアヌークの命名である。きびしい国家財政のなかから将来を嘱望して、国費でフランスに留学させたにもかかわらず、留学中に共産主義を信奉したばかりか、プノンペンの名門高等中学校で教授をしながら「シアヌーク打倒」と知識人、学生を扇動している。1963年5月、ポル・ポト(サロト・ソル)をはじめとした青年共産主義者たちを、シアヌークが腹いせに「危険分子」「クメール・ルージュ」(頭だけ赤いという意味もある)と罵倒したのがこの通称の始まりである。
ジュネーブ協定を境にして、クメール人民革命党の党中央主流派は、民族解放闘争の古参活動家から、フランス留学経験者に世代交代した。それにともない、党の路線も民族解放闘争から反封建主義へと重点が置かれるようになり、フランス帝国主義・アメリカ帝国主義打倒闘争から、カンボジアの統治者であるシアヌーク打倒闘争にシフトしていった。
ポル・ポト派のイデオロギーは、毛沢東思想の影響を受けたものである。都市民の強制移住−集団農業家、徹底した知識人排撃は、毛沢東の下放政策のカンボジア版だといえるだろう。
ポル・ポトはカンボジアの自然を大改造して、カンボジアに豊かな農業共産主義を樹立しようとする。社会主義4ヵ年計画では、灌漑用のダムを建設して、水田を二期作にして、一挙に増産をはかろうとする。しかし強制労働によるこの無計画な社会主義は計画は挫折する。しかしソ連や中国と同様に、マルクス=レーニン主義の「歴史法則」の正しさが疑われることはなかった。ポル・ポトは以下の命令を全カンボジアに発した。
「内部の敵を粛清せよ」
カンボジアの全ての村にチュロープ(密偵)と呼ばれる密告組織がつくりあげられ、村人が村人を監視する恐怖支配の体制はこうして築きあげられた。「内部の敵」とはいっても、実際は、ごく普通の住民にすぎない。皿を一枚割っただけでも、破壊分子だとされた。スプーンを一本無くしても敵、牛に餌を十分やっていないと言っては敵、また子供を使って、家の中の会話まで、盗み聞きさせた。外国語を読み書きできるインテリ層は真っ先にスパイと疑われ、粛清の対象となる。
「やだ!やだ!殺さないで!お母さん、お父さん、僕を助けて!」
サーンはものが喉に詰まったように泣くこともできず、喘いだ。残酷
なチロープの影が忍びよると力の抜けたソパートの体を押さえつけ、
悪魔の監視する中で穴の近くへと引きずっていった。
「死ね、帝国主義め!」
その一声とともにクダンは鍬をチロープに投げ与えた。
悪魔は鍬を受け取り、足元に跪いているソポルの末息子の頭蓋骨の
上に、柄をしなわせてぱんっと振り下ろした。
(『嵐を通り抜ける者』コン・ブンチュアン、1986年)
「人間の臓物は香ばしくてうまいんだ、おまえももうやめられんさ。
だからな、おまえは自分の力で殺して臓物を引っ張り出して食うんだ。
革命ってのはそうするんだ。他人の労働力を食い物にせず、食べる者
が働くんだ」
(『母の心』ヤーウ・ソムポン、1988年)
1978年12月ベトナム軍はプノンペンに侵入、1979年1月7日にクメール・ルージュ政権は崩壊。このときベトナム軍を支援したのが、戦線離脱したクメール・ルージュ活動家たちである。彼らはクメール・ルージュ後のカンボジア政府の中枢となる。現在もポル・ポト派の指導者達の裁判が引き延ばされ続けているのも、裁判に巻き込まれ旧悪が暴露されるのを恐れているためだとされている。
▽カンボジアの紛争 ―「ポル・ポト問題」の一般化に向けての試論―
http://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Report/pdf/2001_03_06_06.pdf
▽ポル・ポト時代の傷跡
http://www.ne.jp/asahi/eden/kanata/cambodia/tuol/guide.html
▽ポル・ポトの悪夢−−大虐殺の責任が今問われる
http://www.law.hiroshima-u.ac.jp/profhome/nishitan/doc/01999-porpoto.htm
▽『魔物の島』に関する一考察--作家ヴァンディ・カオンの見たカンボジア現代史』
http://www.tufs.ac.jp/common/fs/ase/cam/res/lit/ot10.html
▽「1980年代の社会主義政権下におけるカンボジア現代文学」
http://www.tufs.ac.jp/common/fs/ase/cam/res/lit/ot11.html
しかし「カンボジア・ゼロ年」はまだ終わっていないし、<キリング・フィールド>は今もカンボジア西部に広がっている。400万個とも600万個ともいわれる対人地雷の存在である。
カンボジアでは、今でも月に200人から300人が対人地雷の犠牲になっている。高度に装甲された地雷撤去車で処理できる地雷は8割程度。残りは手作業にたよるしかない。しかし金属探知器を使った地道な作業は1日で畳6畳分しかすすまない。このペースでは、1100年かかっても撤去作業は終わらないだろうと言われている。
対人地雷の恐ろしさは、それによって死なないことである。地雷には手足だけを吹き飛ばすものが多い。犠牲になるのは、子どもや女性や老人、弱い人たちである。
この現実を前に、どうしたらいいのか。答えなどない。しかし、かつて第三世界革命の理想からインドシナ革命への合流をめざしてヴェトナム反戦闘争に起ちあがった人々は、この現実に眼を背けることなく、両眼をぱっちりと見開いて見据えなければならない。はっきりしているのは、今こうしている間にも、救える命が一つでもあるかもしれないということだけだ。絶望しているひまなど、あなたにも私にもないだろう。
▽PEACEBOAT 地雷廃絶キャンペーン
http://www.peaceboat.org/project/jirai/
▽アキラの地雷博物館
http://peace.s9.xrea.com/
これについては、残念ながら、まだ十分な検証がなされているとはとてもいえない。
ポル・ポト政権がなぜ生まれたのか? カンボジアの国民の大多数を占めるのは農村社会である。政治には無関心で、シアヌークを支持していたのがこの農民たちである。共産主義や革命ということばはおろか、ポル・ポトの名前さえも知らなかっただろう。
カンボジアの川には、雨季に逆流する川(トンレ)と逆流しない川(ストゥン)の二つのタイプがある。モンスーン季になると、メコン川は氾濫して、最大の支流であるトンレサップ川は逆流してトンレサップ湖に向かい、湖面の広さは乾季の10倍にもなる。ここでは同じ住民が乾季に農業を営み、雨季には漁業に精をだす。
このような自然条件においては、大規模で近代的な農業は発展しようがなかった。しかし土地はすべて王の所有物ということになってはいたが、実際には開墾すればその農民の所有物とすることができた。農民たちは独立した自給自足の生活を送っていたのである。
ここに「アジア的生産様式」(マルクス)に基づいた、農村共同体のプロトタイプを見てとることもできるだろう。晩年のマルクスは、西欧中心の進歩主義史観を修正して、ロシアの社会主義者ヴェラ・ザスーリッチ宛の手紙で「遅れたロシア」の農村共同体に、「ロシア社会再生の要素と、いまなお資本主義制度のとりことなっている諸国に対する優越性」を認めたのだった(『資本主義的生産に先行する諸形態』国民文庫)。
このマルクスのことばは、ロシアやアジア諸国における農業共同体が、資本主義的発展段階を通過することなく、コルホーズ農業に転化される可能性を検証するものとされた。しかしその現実は、私たちが知るようにソ連の集団農業化の悲劇である。
しかしポル・ポトの蛮行を、「アジア的専制」「後進国革命」の限界や歪曲ととらえる議論は、カンボジアも現代史のなかにあることを没却しかねない。
留学中にフランス共産党に入党したポル・ポトは、1950年にユーゴスラビアのザグレブで労働工作隊に参加したという(ユーゴスラビア・ジャーナリスト代表団との会見、1978年3月17日)。若き日のポル・ポトと、1948年のユーゴ・ソ連論争を経て、自主管理型社会主義や非同盟主義外交の独自路線を歩んだチトー社会主義に接していることは、注目に値する。またポル・ポトは、カンボジア共産党の世代交代を牽引した、広い意味での「新左翼」世代である。
インドシナ三国の共産党は、1930年10月、当時のコミンテルンの方針によって結成された「インドシナ共産党」がルーツである。最初はホ・チ・ミンの指導のもとに活動していたが、1951年6月、ヴェトナム、カンボジア、ラオスの三つの「国民共産党」に分離することを決定する。
しかしカンボジア共産党は、ヴェトナム共産党と協調路線をとるグループ(クメール・ハノイ)と、ヴェトナムと対立するポル・ポト派(クメール・ルージュ)とに分裂する。
この背景には第1次インドシナ戦争があった。戦後、カンボジアは戦前と同様にフランスの保護下におかれた。これに対して、カンボジアでも、ヴェトナムやラオスと同様に民族解放闘争が起きる。1954年、第1次インドシナ戦争の終結を定めたジュネーヴ協定は、民族統一戦線クメール・イサラク(自由クメール)のための集結地を認めなかった。クメール・イサラクの法的・政治的権利は国際監視管理委員会が保護するとされたが、クメール人民革命党(カンボジア共産党)の指導者たちの多くは北ベトナムのハノイに亡命した。
この結果、クメール人民革命党の主要な指導者が欠けることになった。その政治的空白の時期に、特に首都プノンペンの党組織の中核を担うことになったのが、ポル・ポトをはじめとしたフランス留学経験のある当時20代の青年指導者たちだったのである。
他方、「クメール・ハノイ」(ハノイのクメール)と総称されるようになった、北ヴェトナムに亡命したクメール人共産主義者たちがカンボジアへ戻るのは、1970年の民族統一戦線の結成を待たねばならなかった。
ポル・ポト派の通称である「クメール・ルージュ」(赤いクメール)は、シアヌークの命名である。きびしい国家財政のなかから将来を嘱望して、国費でフランスに留学させたにもかかわらず、留学中に共産主義を信奉したばかりか、プノンペンの名門高等中学校で教授をしながら「シアヌーク打倒」と知識人、学生を扇動している。1963年5月、ポル・ポト(サロト・ソル)をはじめとした青年共産主義者たちを、シアヌークが腹いせに「危険分子」「クメール・ルージュ」(頭だけ赤いという意味もある)と罵倒したのがこの通称の始まりである。
ジュネーブ協定を境にして、クメール人民革命党の党中央主流派は、民族解放闘争の古参活動家から、フランス留学経験者に世代交代した。それにともない、党の路線も民族解放闘争から反封建主義へと重点が置かれるようになり、フランス帝国主義・アメリカ帝国主義打倒闘争から、カンボジアの統治者であるシアヌーク打倒闘争にシフトしていった。
ポル・ポト派のイデオロギーは、毛沢東思想の影響を受けたものである。都市民の強制移住−集団農業家、徹底した知識人排撃は、毛沢東の下放政策のカンボジア版だといえるだろう。
ポル・ポトはカンボジアの自然を大改造して、カンボジアに豊かな農業共産主義を樹立しようとする。社会主義4ヵ年計画では、灌漑用のダムを建設して、水田を二期作にして、一挙に増産をはかろうとする。しかし強制労働によるこの無計画な社会主義は計画は挫折する。しかしソ連や中国と同様に、マルクス=レーニン主義の「歴史法則」の正しさが疑われることはなかった。ポル・ポトは以下の命令を全カンボジアに発した。
「内部の敵を粛清せよ」
カンボジアの全ての村にチュロープ(密偵)と呼ばれる密告組織がつくりあげられ、村人が村人を監視する恐怖支配の体制はこうして築きあげられた。「内部の敵」とはいっても、実際は、ごく普通の住民にすぎない。皿を一枚割っただけでも、破壊分子だとされた。スプーンを一本無くしても敵、牛に餌を十分やっていないと言っては敵、また子供を使って、家の中の会話まで、盗み聞きさせた。外国語を読み書きできるインテリ層は真っ先にスパイと疑われ、粛清の対象となる。
「やだ!やだ!殺さないで!お母さん、お父さん、僕を助けて!」
サーンはものが喉に詰まったように泣くこともできず、喘いだ。残酷
なチロープの影が忍びよると力の抜けたソパートの体を押さえつけ、
悪魔の監視する中で穴の近くへと引きずっていった。
「死ね、帝国主義め!」
その一声とともにクダンは鍬をチロープに投げ与えた。
悪魔は鍬を受け取り、足元に跪いているソポルの末息子の頭蓋骨の
上に、柄をしなわせてぱんっと振り下ろした。
(『嵐を通り抜ける者』コン・ブンチュアン、1986年)
「人間の臓物は香ばしくてうまいんだ、おまえももうやめられんさ。
だからな、おまえは自分の力で殺して臓物を引っ張り出して食うんだ。
革命ってのはそうするんだ。他人の労働力を食い物にせず、食べる者
が働くんだ」
(『母の心』ヤーウ・ソムポン、1988年)
1978年12月ベトナム軍はプノンペンに侵入、1979年1月7日にクメール・ルージュ政権は崩壊。このときベトナム軍を支援したのが、戦線離脱したクメール・ルージュ活動家たちである。彼らはクメール・ルージュ後のカンボジア政府の中枢となる。現在もポル・ポト派の指導者達の裁判が引き延ばされ続けているのも、裁判に巻き込まれ旧悪が暴露されるのを恐れているためだとされている。
▽カンボジアの紛争 ―「ポル・ポト問題」の一般化に向けての試論―
http://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Report/pdf/2001_03_06_06.pdf
▽ポル・ポト時代の傷跡
http://www.ne.jp/asahi/eden/kanata/cambodia/tuol/guide.html
▽ポル・ポトの悪夢−−大虐殺の責任が今問われる
http://www.law.hiroshima-u.ac.jp/profhome/nishitan/doc/01999-porpoto.htm
▽『魔物の島』に関する一考察--作家ヴァンディ・カオンの見たカンボジア現代史』
http://www.tufs.ac.jp/common/fs/ase/cam/res/lit/ot10.html
▽「1980年代の社会主義政権下におけるカンボジア現代文学」
http://www.tufs.ac.jp/common/fs/ase/cam/res/lit/ot11.html
しかし「カンボジア・ゼロ年」はまだ終わっていないし、<キリング・フィールド>は今もカンボジア西部に広がっている。400万個とも600万個ともいわれる対人地雷の存在である。
カンボジアでは、今でも月に200人から300人が対人地雷の犠牲になっている。高度に装甲された地雷撤去車で処理できる地雷は8割程度。残りは手作業にたよるしかない。しかし金属探知器を使った地道な作業は1日で畳6畳分しかすすまない。このペースでは、1100年かかっても撤去作業は終わらないだろうと言われている。
対人地雷の恐ろしさは、それによって死なないことである。地雷には手足だけを吹き飛ばすものが多い。犠牲になるのは、子どもや女性や老人、弱い人たちである。
この現実を前に、どうしたらいいのか。答えなどない。しかし、かつて第三世界革命の理想からインドシナ革命への合流をめざしてヴェトナム反戦闘争に起ちあがった人々は、この現実に眼を背けることなく、両眼をぱっちりと見開いて見据えなければならない。はっきりしているのは、今こうしている間にも、救える命が一つでもあるかもしれないということだけだ。絶望しているひまなど、あなたにも私にもないだろう。
▽PEACEBOAT 地雷廃絶キャンペーン
http://www.peaceboat.org/project/jirai/
▽アキラの地雷博物館
http://peace.s9.xrea.com/