1917年4月16日、レーニンの封印列車がペトログラードに到着。

 3月15日、亡命生活のなかの何の変哲もない一日だった。昼食をすませたレーニンは日課の図書館へ行く支度が終わり、ナージャ(クループスカヤ)が皿洗いをすませたときだった。同志の一人ブロンスキーが駆け込んできた。「貴方は何も知らないのか?!」。レーニンが予想もしなかったところで、ついにロシアに熱望していた革命が到来したのだ。

 3月8日の繊維工場の女性労働者の行動をきっかけに、ペトログラード(ペテルブルグを戦争中に改称。ソ連時代のレニングラード)に工場ストライキが広がる。この労働者の戦いは、兵士の反乱をよびおこし、首都の権力は労働者・兵士たちのソヴィエトが奪い取る。ここに1613年以来ロシアを支配していたロマノフ王朝は崩壊したのである。
 この3月革命(ロシア暦2月革命)によって、リヴォフ公を首相とする立憲民主党を中心とする臨時政府が成立する。臨時政府にソヴィエトから入閣したのは法相ケレンスキーだけだった。 これ以後、臨時政府とソヴィエトという、いわゆる「二重権力」が続く中でロシアの臨時政府は戦争を継続する。

 レーニンは1905年のように、革命的動乱が始まって数ヵ月もたってから帰国するようなミスを繰り返すつもりはなかった。しかし一体どのようにして? ヨーロッパ中央部は、戦争によって完全に分断されていた。ロシアに帰国するためには連合国側の許可が必要だが、そんな許可は全く出そうにない。

 そこでレーニンが思いついたのは、「飛行機をチャーターしてロシアまで飛んで行く」という突拍子もないプランだった。いったい、どこにそんな金がある? またそんなとんでもない旅を引き受けるようなパイロットがいるのか? しかしレーニンはこの計画を断念しようとしなかった、……無着陸でそんな長距離は飛べないし、中央列強の高射砲で撃墜されるだろうと指摘されるまでは。

 しかしレーニンとジノヴィエフの二人は、どんな犠牲を払ってでも直ちにロシアへ帰国しなければならない。今度はストックホルムの同志ガネツキーに秘密の手紙を書いた。

 「唯一のプランは次の通り。すぐに私とジノヴィエフに似たスウェーデン人を二人見つけてくれ! われわれはスウェーデン語を知らないので、その二人は聾唖者でないといけない。何とかしてわれわれ二人の写真は届ける」

 このプランを聞いた妻ナージャは笑い出して、ただちに却下した。夫イリイチには寝言のくせがあったのだ。「わかっていると思うけど、あなたは夢でメンシェヴィキに出会ったら、『この人間の屑め!』とか怒鳴りだすわよ?」

 レーニンも少し冷静になり、今度はロシアの同盟国のイギリスを経由して、ロシアに帰国するルートを検討する。しかしイギリス当局はこの有名な革命家を決して見逃したりはしないだろう。ロンドン滞在中、アメリカに出したレーニンの手紙の多くは没収されてしまったし、イギリスの同志たちには常に官憲の目が光っていた。イギリスの官憲当局は、レーニンを逮捕するか、よくても出発を引き伸ばしにかかることが予想された。

 「ウラジーミル・ウリヤーノフ」という本名では、連合国側からの渡航許可は降りそうにない。ここはもう非合法で押し切るしかないだろう。レーニンはジュネーブにいた同志カルピンスキーに手紙を書いた。

 「私はかつらをつけます」

 かつらをつけた写真を用意して、カルピンスキーになりすましてパスポートを取得しようとしたのだ。その間にカルピンスキーはジュネーブから身を隠すという替え玉トリックである。これはとてもいいプランに思われた。しかしカルピンスキーは、ジュネーブ監獄に政治犯として一時拘留されたことが判明する。つまりスイス警察に「面が割れて」いたのだ。たとえパスポートが取得できたとしても、国境でフランス警備隊に逮捕されてしまうだろう。

 結局、まともな代案は何ひとつなかった。そのとき、マルトフが亡命者と捕虜の交換プランを提案する。スイスに亡命しているロシア人社会主義者がドイツを通過するドイツ外務省に許可を要求するかわりに、ロシア臨時政府はドイツ人・オーストリア人捕虜を解放するというものだ。レーニンはこのプランにすぐさまとびついた。

 ベルリンからはすぐに色よい返事があった。ドイツは西部戦線での戦闘を継続するために、東部戦線の単独講和を望んでいたのだ。そのためには、「アカども」をロシアに送り込んで、革命が広がることを期待した。しかしロシア臨時政府はこの要求を拒絶する。レーニンなんかに帰ってきてほしくはないのである。

 業を煮やしたレーニンは、スイスの社会主義インターの活動家の仲介と連帯のもとに、ドイツの承認を取りつける。ロシアの政治亡命者はその数を問わず、列車でドイツを縦断し、またその列車は縦断中は治外法権を有することとなった。これが有名ないわゆる「レーニンの封印列車」である。


 しかし「封印列車」というのは、実際には正しい命名ではない。客車の三つのドアは封印されていたが、ドイツ軍将校の寝室に通じるドアは施錠されず開け放たれたままだった。ロシアの亡命者たちは、列車に乗り合わせてきた人々に話しかけたり、ビールと新聞を買いに駅に降りたりしている。はてはドイツの兵士や鉄道員に、ドイツで革命を起こすよう教唆扇動して上機嫌な者もいた。

 レーニンが帰国すると、立憲民主党は早速「敵国ドイツのやとわれスパイ」という非難キャンペーンを展開する。この「レーニン=ドイツのスパイ説」については、『レーニン批判の批判』(1993年)が詳細な批判を試みている。
 この「スパイ説」批判にはいくつか論点があるのだが、いちばんのポイントは、32人もの亡命者の旅費を、どのように調達したのかということだろう。レーニンは自分の旅費は自分で支払うことにして、ドイツからの補助は一切認めないことにした。それはよいのだが、出発の際にあった現金は、党の資金1000フランだけだった。スイス社会党から3000フランを借り入れ、スイスでの募金を加えてどうにか資金を調達できたのである。

 4000フランといえば、いま、いったいどれくらいの金額かは正確にはわからないが、1909年とやや古いデータだが、チューリッヒ大学に準教授として採用された、まだ無名の33歳のアインシュタインの初任給が年俸4500スイス・フランだった。いまの価値に直すと、4000フランは、せいぜい1000 万円前後と考えれられる。32人の1週間分の旅費としては、ほぼギリギリだったろう。どこにも「ドイツの金塊」などはなかったのである。

 さて、フィンランド経由でペトログラード駅に到着したレーニンは、群集にむかってこう演説した。

 「私は、諸君を通して勝利的ロシア革命にあいさつすることを幸福に思う。海賊的帝国主義戦争は、全ヨーロッパにわたる内乱の開始である。諸君が達成したロシア革命は、その道を準備し、新しいエポックを開いたのである。全世界社会主義革命万歳!」

 これこそが、レーニンが列車の客室のなかで練り上げた革命戦略「四月テーゼ」の核心的な主張だった。しかし、この演説を聞いた群集は、「口アングリ」だったようである。「偶然立ち寄った異教徒たる自分ばかりでなく」と、メンシェヴィキのスハーノフはこの演説を振り返る。「忠実な同志のすべてを愕然とさせ、呆然とさせた霹靂のような演説を、私はけっして忘れないだろう。それはすべての者にとって青天の霹靂であったことを、私は断言する」

 「全権力をソヴィエトへ」をスローガンに、そして戦争を継続する臨時政府打倒を訴えた4月テーゼは、最初はレーニンの同志たちにも受け入れられなかったのだ。ボリシェヴィキのペトログラード市委員会は、この4月テーゼを13対2で否決する。レーニンの政策は、長期にわたる亡命生活でロシアから隔離したユートピア論と見なされ、はては「バクーニンの再来」(公認マルクス主義者の敵対者の代名詞!)という批判まで飛び出す始末だった。

 平和はロシアの民衆の要求だったが、しかし戦争の告発には、いつの時代にも多くの困難が伴うものである。労働者や兵士のなかに、敵国ドイツに勝とうという愛国心が存在する限り、戦争を食い止めることはできないだろう。レーニンは世論を激昂させかねない「帝国主義戦争を内乱へ」「革命的祖国敗北主義」などのスローガンのトーンを一時抑制して、大衆の説得につとめ、臨時政府打倒にスローガンを絞り込んでいく。「君子豹変」ということばそのままの、レーニンの柔軟なリアリズムには、今日でも学ぶべきことが多いだろう。

 さて、このドイツ縦断の旅行中、いかにもレーニンらしいエピソードがある。ロシア人亡命者の喫煙組はほかの同乗者を気づかい、車室では煙草に火をつけない代わりにトイレで吸うことにしていた。しかしそのために客室の廊下に行列ができて、紛争が絶えなくなってしまったのだ。そこでレーニンの提案により、トイレの使用に配給制が導入され、紙切れを小さく切って、それが切符として使用されることになった。一つは通常のトイレを使うもの、もう一つは煙草をふかすためのものだった。このレーニンの「強権」の発動で、たちまちトラブルは解決した。

 トイレの配給制まで考え出して実行に移してしまうレーニン。しかしソ連の社会主義計画経済は破綻して、かえって行列を作り出す社会になってしまった。この現実を見たら、レーニンは何といっただろうか?


▽参考文献
『レーニン』ロバート・サーヴィス(岩波書店)
『レーニン批判の批判』S.ルバノフ(新読書社)
『ロシア共産党党内闘争史』R.ダニエルズ(現代思潮社)