1980年4月14日、サルトルが亡くなる。

 きょうは、サルトル歿後25年である。どこかで追悼特集をや
ったりシンポジウムがしているのだろうか。

 歿後20年には、サルトル研究会のシンポジウムもあったらし
い。しかしサルトルが話題になったとは聞かない。思い出せば
歿後10年のころでさえも、すでにサルトルは過去の思想家にな
っていた。

 しかし、世の人々が忘れてしまっても、ここではしっかりと
記録にとどめておこう。仕事もあるので、今日は出来る限り簡
単に。

 サルトルの小説や戯曲、哲学書が最もよく読まれたのは、1960
年代の左翼学生運動全盛期だっただろう。その当時、サルトル
が左翼学生に関心を集めたのは、 乱暴にいえば、「疎外とは
何か」と「政治参加としてのアンガージュマンの理論」の2点
に尽きたように思われる。
 1950年代から1960年代にかけては、まだマルクス主義全盛の
時代だった。サルトルは硬直化したソ連やフランス共産党の公
式マルクス主義を批判して、マルクス主義には「人間」の問題
が欠けており、そこを担当するのが実存主義であるという立場
をとった。

 「マルクス主義は人間を観念(イデー)のなかに吸収してし
まったが、実存主義は人間がそれが存在する至るところ、即ち
その労働のなかに、家庭内に、巷のうちにあぐね求める」(サ
ルトル『弁証法的理性批判』)

 実存主義とはヒューマニズムである。実存主義はマルクス主
義に欠けていた、人間の個性や意志の自由を補完するというサ
ルトルの主張が、青年たちに受け入れられたのだ。同時に、サ
ルトルが大きな影響を与えたのは「アンガージュマン」(投企
 engagement)の理論である。

 サルトルはフッサールやハイデガーの影響のもとに、人間の
意識は自由であり、その根拠は"無"であると主張した。しかし
自由であることは、人間にとって幸福なことではない。「人間
は自由の刑に処せられている」というのはサルトルの有名なこ
とばである。この不条理な世界のなかで、人間は自分自身で決
断し行動しなければならないし、責任はすべて自分にはねかえ
ってくる。人間は自由な意志にもとづいて、時代や社会の「状
況」のなかに自らを投げ出す=投企するのだ。

 晩年のサルトルは、マオイズム(毛沢東主義)の極左学生グ
ループの政治運動を支持して、街頭に立って自分でビラをまい
た。またベトナムのボートピープル支援運動に参加する。ベト
ナムやカンボジアで、人間の解放の希望を託したはずの社会主
義・共産主義者が、抑圧と虐殺に転化していく現実に、サルト
ルの絶望はどれだけ深かったことだろう。亡くなった80年に発
表された対談では、自分のそれまでの仕事を否定するかのよう
な発言をのこしている。この当時、サルトルは毛沢東主義から
ユダヤ主義に転じた秘書ベニー・レヴィを通じて、レヴィナス
をはじめとする秘教的なユダヤ思想に近づいていたともいわれ
る。

 しかし、 『弁証法的理性批判』は、いま読み返しても、
そう捨てたものでない。サルトルがいう「溶融的集団性」
(groupeen fusion)は、1968年5月のパリのカルチェ・ラタ
ンの学生叛乱をきっかけに、世界中に世界に燎原の火のごとく
広がった1968年革命の精神を、思想的に先取りするものだった。
「階級的存在は労働運動の退潮期にこそかえってはっきりとあ
らわれる」という逆説も、今日の状況を考える上でも興味深い
指摘だろう。

 ボートピープルの問題は、いまも北朝鮮の「脱北者」や「日
本人拉致問題」として、今日に至っている。実はサルトルが考
えたことは、いまに至っても何も解決されていないままなので
ある。