1912年4月13日、石川啄木歿。

  ある年の花遅かりき啄木忌(久保田万太郎)

 石川啄木(1886−1912)、わずか26歳で亡くなったこの国民的な歌人・詩人の名を出すのは、このサイトのがらではないかもしれない。便宜として、以下のサイトをご参考に。

石川啄木記念館
http://www.echna.ne.jp/~takuboku/

 「大逆事件」を契機に啄木が社会主義思想に近づいたことは、この項3月17日の「平出隆」の項でも少し触れた。啄木は大逆事件の弁護団の一人、平出隆弁護士を訪ね、大逆事件の真相を後世に伝えるための詳細な裁判記録ノートを作成して、さらに自分の学習用に「社会主義文献ノート」をまとめている。
 石川啄木はもう少し長生きしていたら、プロレタリア文学運動の戦列に加わっただろうか。若き日の中野重治は、自らのプロレタリア文学運動の立場を確立させるために、1927年11月『驢馬』において次のようにいう。

 「われらをしてわれらの愛する啄木を盲目的曲解者どもから奪還せしめよ。われらをして彼の詩歌のうちに痕跡を残せるその観念的虚無主義とナロドニツキツームとにかかわらず、その真実の姿を、彼の方向を、明確に感じとらしめよ。必然こそ最も確実な理想である。彼の理想をして復活せしめよ。彼の相続をして石碑の建立の感傷性に終らしめるな。」

 しかし、人々に愛唱されてきたのは、「社会主義詩人」としての啄木ではなく、「東海の小島の礒の白浜に/われ泣きぬれて/蟹とたわむる」「友がみな/われよりえらく見ゆる日よ/花を買い来て妻としたしむ」 などの感傷詩人としての啄木である。

 この手の名歌は、観光名所に似ている。過疎地の自治体の観光協会の「石碑の建立」にも役立つだろう。人が知っているものを自分も知るという大衆の機微に訴えるのだろう。しかし、本気で考えていくと、「たはむれに母を背負ひて/そのあまり軽きに泣きて/三歩あゆまず」という有名な歌も、銀座ヤマト画廊前の「母を背負って歩く若き日の笹川良一像」(孝子の像)のように、かなりうさんくさいものである。

 『新文芸読本 石川啄木』(河出書房新社)でノンフイクション作家の澤地久枝の言うところによると、啄木はエッセイで「私は母をいじめることに快感を感じてしかたがない。哀れだと思うけど、よけいそそられていじめたくなる」と書いているという。

 妻子や老いた母を函館に置き去りにして、ろくに送金もせず、嫁と姑の壮絶な闘いの果てに、妻を家出させた啄木。夢想癖のために仕事に身が入らず、給料が入るとすぐに贅沢に使い果たし、不義理な借金を重ねた啄木。『だって欲しいんだもん!』の借金女王の中村うさぎに「私と一緒じゃん!」といわれてしまう啄木。

 思想や文学と、実生活と人格は別ものだという、極めてまっとうな考えもある。しかし、啄木がだめで救いようのない人間だったからこそ、人間を弱さから救済する、優れた歌を作りえたのではないだろうか。人間の「悪」「弱さ」「病」「闇」を包括できないような思想は、人間の解放思想たりえない。私たちも中野重治の言葉を繰り返そう。

 「われらをしてわれらの愛する啄木を盲目的曲解者どもから奪還せしめよ」

 啄木は今も左翼に愛される歌人・詩人である。元解放派で、歌人でもある小嵐九八郎氏の『蜂起には至らず』に、こんな一節がある。10・8羽田闘争で戦死した京大生で中核派の山崎博昭君の旅行カバンに残されていたのは、マルクス、レーニン、トロツキーほか10冊の本だった。社青同解放派なら、これに『少年マガジン』と啄木歌集が付け加わるだろう、と。解放派は分裂して、死傷者多数を出す凄惨な組織抗争を繰り広げている。

 「われは知る、テロリストの/かなしき心を──/言葉とおこないとを分ちがたき/ただひとつの心を、/奪われたる言葉のかわりに/おこないをもて語らんとする心を、/われとわがからだを敵に擲げつくる心を──/しかして、そは真面目にして熱心なる人の常に有つかなしみなり。」(石川啄木「ココアのひと匙」)