ヤーシンの虐殺

 1948年4月9日、パレスチナのデイル・ヤーシンで254人のアラブ人がユダヤ人に殺される。

 デイル・ヤーシンは、エルサレムからそう遠くない西側にある山間の村である。このテロ行為の指揮をとったのが、アルゴン(民族軍事組織)の指導者で、後にイスラエル首相となるペギンだった。

 「攻撃隊員は一軒一軒しらみつぶしに制圧していかねばならなかった。そのため多数の手榴弾を使用した。われわれの警告を無視した一般住民は、当然戦闘にまきこまれたのである」(ペギン『反乱』)

 実際には手榴弾だけではなく、TNT火薬を使って家屋を爆破している。あらゆる家を破壊することが命令であったことは明らかだろう。事件直後にヤーシン村を訪問した国際赤十字委員会によると、400人以上の人たちがこの村にいたが、約50人が逃げ、254人が虐殺されたと証言している。
 1948年イスラエル建国のもとになった国連分割決議(1947年11月)は、イギリスの委任統治下にあったパレスチナをアラブ国家とユダヤ国家に分割することを定めた。この決議以降、19世紀末からパレスチナ入植を進めていたシオニストからのアラブ人に対するテロ攻勢が強まる。このテロの先頭に立ったのが、後にイスラエル軍の基幹となるハガナ(防衛の意)といわれる自警団や民間軍事組織だった。あるいは農業協同組合(キブツ)も経済入植地もカムフラージュとして最大限に利用された。

 この当時、パレスチナはイギリスの統治下にあり、イギリス軍も警察も駐留していた……しかしテロはやむことがなかった。ユダヤ人は自由に武器が調達できる利点を生かしたが、アラブ人にはその自由がなかった。

 さらに決定的だったのは、イギリスの撤退政策だった。国連の分割決議のあと、イギリスは軍隊をパレスチナから撤退させ、委任統治政府として地域警察軍の役割を完了して、すべての武器、資材、あらゆる施設、装備、倉庫、そして行政官庁やその建物などを新しい政府当局に残すと国連に通告する−−しかし、実際には、パレスチナ・アラブの政府・政庁は存在しない。シオニストたちは、この撤兵の空白期を最大限に利用して、軍事的な優位を確保した。

 イギリス軍の撤収と同時に、シオニストはユダヤ国家の設立を宣言して、臨時政府を樹立した。国連分割決議を拒否したアラブ側は、この日を期してユダヤ国家に応戦する。パレスチナ戦争(第一次中東戦争)の始まりである。この戦争以降、パレスチナ難民は一挙に増大し、約87万人にもふくれあがる。

 シオニズム−−この語源は、シオンの丘に由来する。旧約聖書に基づいて、パレスチナを「シオンの丘」「エルツ・イスラエル」としてユダヤ人の「約束の地」とするものである。シオニズムの創始者ヘルツルは、ユダヤ人問題の解決は同化にではなく、ユダヤ人国家の建設にあるとした。1897年の第1回シオニスト会議は、「ユダヤ人のホームランドをパレスチナに築くこと」を決定して、ユダヤ人の組織的なパレスチナ移住が始まる。ユダヤ人入植の本格的開始はバルフォア宣言(1917年)後であり、さらにナチズムによるユダヤ人迫害の始まる1930年代からである。

 ヨーロッパはユダヤ人に対する差別と迫害をパレスチナに転化した。第一次大戦中の1915年、イギリスは「フサイン・マクマホン協定」でアラブ独立を約束する一方で、翌1916年にはフランスとの間にパレスチナ分割をめぐる「サイクス・ピコ協定」を結んでいる。イギリスがアラブ人、ユダヤ人双方に独立国家建設を約束、一方でフランスと分割協定を結んだことが、今日の「中東紛争」の背景にあることを忘れてはならない。イギリスやフランスは、アラブ世界の中心に植民地的な入植国家を築きあげることで、アラブ地域における権益を確保するために、シオニズム運動やアラブの独立運動を最大限に利用した。

 イスラエルの軍事行動とパレスチナ難民のレジスタンスを「イスラエル」対「パレスチナ」、あるいは「ユダヤ教」対「イスラム教」の民族紛争や宗教紛争という見方が流通している。しかし、ユダヤ教徒とイスラム教徒は、イベリア半島においてもトルコ帝国においても、共存・共生してきたのは、疑いようのない歴史的事実である。この問題で、本当に利益を得ているのは誰で、犠牲になっているのは誰かという視点に立ってみてみよう。パレスチナ問題は、現代においても貫徹する「帝国主義」問題の縮図であり、人間の「生存権」の問題なのである。