1903年4月8日、黒岩涙香、幸徳秋水、内村鑑三、堺利彦らが「萬朝報」に非戦論を発表する。

 『萬朝報』1892年(明治25年)11月、黒岩涙香によって東京で創刊。「万朝報」は「よろず重宝」にあやかる。 「永世無休」を掲げ、「一に簡単、二に明瞭、三に痛快」をモットーとし、権力悪に対しては徹底的に追求する態度、涙香による翻案探偵小説の人気によって急速に部数を伸ばし、1899年(明治32年)末にはその発行部数が東京の新聞中1位に達した。

▽萬朝報
http://www.honco.net/japanese/04/caption/caption-3-07-j.html

▽黒岩涙香と万朝報
http://kochi-bunkazaidan.or.jp/~bungaku/yorozutyouhou.html

 「萬朝報」に非戦論が掲載されたこの日、「時事新報」は「露国・満州占領を宣言」とロンドン発の外電を伝える。
 新聞が各紙とも主戦論に傾く中にあって、非戦論を堅持していたのが「萬朝報」である。この日発表されたキリスト者・内村鑑三の「戦争廃止論」を引用する。
 「余は日露非開戦論者であるばかりではない、戦争絶対的廃止論者である。戦争は人を殺すことである。そうして人を殺すことは大罪悪である。そうして大罪悪を犯して、個人も国家も永久に利益を収め得ようはずはない。
 世には戦争の利益を説く者がある。しかり、余も一時はかかる愚を唱えた者である。しかしながら今にいたってその愚の極なりしを表白する。戦争の利益はその害毒を償うに足りない。戦争の利益は強盗の利益である。これは、盗みし者の一時の利益であって、(もしこれをしも利益と称するを得ば)、彼と盗まれし者との永久の不利益である。
http://www.geocities.jp/asatosen/kanzo05_nonviolence.htm#戦争廃止論

 内村鑑三は日清戦争のときには義戦論を唱えていた。しかし、その後は非戦論者となり、日露戦争に反対する。その理由は「戦争廃止論」でも述べられているように、「日本が(日清戦争で)二億円の財と一万人の生命を消費して得たものは、僅少の名誉と某伯爵が侯爵になり、妻妾の数を増した以外は何の利益もなく、その大きい目的であった朝鮮の独立を逆に危ういものにし、列強による清国分割文配が却って大きくなって、失ったものの方が多い」というところにあった。
 
 しかし1903年10月、日露国交が決裂するに至り、「萬朝報」も政府を支持する立場を表明して、主戦論に転じる。非戦の立場を貫いた内村鑑三、幸徳秋水、堺利彦は萬朝報を退社を宣言する。幸徳と堺は連名で、「社会主義の見地からは、この戦争は交戦国の貴族と軍人の私闘にすぎず、勝っても負けても犠牲になるのは日露の国民である」と戦争反対の旗幟を鮮明にする。この文章に感動して、海軍工廠をやめて社会主義運動に飛び込んだのが荒畑寒村である。

 [PDF] 「萬朝報」退社の辞
 http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/guest/pdf/sakai_kotoku.pdf

 朝報社をやめた幸徳と堺は、11月に平民社を設立、週刊『平民新聞』を発行する。翌1904年、『平民新聞』創刊一周年記念号に堺・幸徳共訳で発表されたのが、日本初めての『共産党宣言』である。
 1904年2月、日本はロシアに宣戦布告。非戦・反戦の訴えもむなしく、戦争の火蓋は切って下ろされる。戦地に出発する兵士たちに幸徳が贈った文章は、武士道精神に貫かれた、慷慨悲壮なる名文である。いまの時代にこそ、このような文章がもっと読み直されていい。

 「兵士を送る」(「平民新聞」第14号 1904年 2月)

 「嗚呼吾人今や諸君の行を止むるに由なし、吾人の為し得る所は、唯諸君の子孫をして再び此惨事に会する無らしめんが為に、今の悪制度廃止に尽力せんのみ、諸君が朔北の野に奮進するが如く、吾人も亦悪制度廃止の戦場に向って奮進せん、諸君若し死せば、諸君の子孫と共に為さん、諸君生還せば諸君と與に為さん。」 (「平民新聞」第十四号)

▽アナキズム図書室 幸徳秋水
http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/library.html