1892年3月30日、野坂参三(のさかさんぞう 1892−1993)生まれる。
多忙のため、本日は引用だけになることをお許しいただきたい。この項については、いずれ書き直す予定である。
現代中国ライブラリィ人物事典より。
「元日本共産党議長。別名は岡野進・李哲。山口県萩市出身。慶大卒業後、1919年に英国に渡り、英国共産党に入党。22年に帰国。日本共産党に入党。28年、治安維持法違反容疑で逮捕
31年に妻の竜とともにモスクワに亡命し、コミンテルン日本代表。日本との連絡ルート確保のため、34年に渡米。38年にモスクワに帰還。40年に延安の革命根拠地に入り、中国共産党と行動をともにして反戦活動を指導した。
日本敗戦後の46年に亡命16年の生活を終えて帰国。1月16日、日比谷公園で開かれた「野坂参三歓迎国民大会」には数万の大衆が集った。その後、衆議院議員、参議院議員に当選。徳田球一らとともに所感派を指導。55年の六全協(党第6回全国協議会)以後、宮本顕治の指導体制が成立した後も、最高指導者として生き残った。58年党第7回大会で議長就任(書記長は宮本顕治)。82年名誉議長。
92年、ソ連共産党の保管文書からソ連共産党・コミンテルンの秘密資料が発掘。30年代の粛清期に山本懸蔵をトロツキストのスパイとしてソ連当局に売っていたこと(山本は39年に銃殺)、ソ連共産党と「内通」していたことなどが明らかになり、12月に日本共産党から除名。すでに100歳だった。翌年に調布の自宅で死去。
また、2004年には、日中戦争末期の45年5月に毛沢東が野坂に早期に天皇制を廃止することに消極的姿勢を示す書簡を送っていたことが明らかになっている。著書に自伝『風雪の歩み』など。」
http://www.panda.hello-net.info/index.html
さざなみ通信「不破史観の確立と発展――『日本共産党の80年』の批判的検討(上)」より
「最も分厚い3巻本の『70年史』とそれ以前の党史との最も大きな違いの一つは、野坂参三に対する評価である。『70年史』が書かれるまでは、野坂は党の名誉議長(ないし議長)としての公的地位を保っており、過去に何度となく宮本顕治と対立しながらも、その対立面についてはほとんど記述されないか、意図的に野坂の名前が欠落したりしていた。とくに50年問題をめぐる記述ではそれが顕著であった。野坂が徳田とともに所感派を指導していたにもかかわらず、『70年史』以前は徳田の名前のみが挙げられるか、「徳田ら」と表記することで、野坂の役割を徹底的に隠蔽してきた。
しかしながら、野坂が1930年代の粛清期に山本懸蔵をソ連当局に売っていた事実、野坂がソ連共産党と「内通」していた事実などが明らかになると、こうした「隠蔽」は取り払われ、逆に野坂の果たしたマイナスの役割が、これでもかといわんばかりに、党史全体を通じて強調されるようになった。過去の党史における野坂の否定面の隠蔽も、『70年史』における野坂の否定面のあまりに露骨な突出も、バランスのある歴史記述とはいえない。とはいえ、野坂の独自の理論的立場を批判的に振り返ることは重要である。
http://www.linkclub.or.jp/~sazan-tu/sazanami/030/09.html
山川均自伝より。
「歴史をつくり変えることは共産党の学風です」(『山川均自伝』岩波書店、1961年)
閉めの言葉は恩師マルクス風に。
「共産党は自分じしんの歴史をつくる。だが、思うままにではない。党員たちがえらんだ環境のもとではなくて、すぐ目の前にある、持ち越されてきた官僚のもとでつくるのである。死せるすべての世代の伝統が夢魔のように生ける者の頭脳をおさえつけている」
現代中国ライブラリィ人物事典より。
「元日本共産党議長。別名は岡野進・李哲。山口県萩市出身。慶大卒業後、1919年に英国に渡り、英国共産党に入党。22年に帰国。日本共産党に入党。28年、治安維持法違反容疑で逮捕
31年に妻の竜とともにモスクワに亡命し、コミンテルン日本代表。日本との連絡ルート確保のため、34年に渡米。38年にモスクワに帰還。40年に延安の革命根拠地に入り、中国共産党と行動をともにして反戦活動を指導した。
日本敗戦後の46年に亡命16年の生活を終えて帰国。1月16日、日比谷公園で開かれた「野坂参三歓迎国民大会」には数万の大衆が集った。その後、衆議院議員、参議院議員に当選。徳田球一らとともに所感派を指導。55年の六全協(党第6回全国協議会)以後、宮本顕治の指導体制が成立した後も、最高指導者として生き残った。58年党第7回大会で議長就任(書記長は宮本顕治)。82年名誉議長。
92年、ソ連共産党の保管文書からソ連共産党・コミンテルンの秘密資料が発掘。30年代の粛清期に山本懸蔵をトロツキストのスパイとしてソ連当局に売っていたこと(山本は39年に銃殺)、ソ連共産党と「内通」していたことなどが明らかになり、12月に日本共産党から除名。すでに100歳だった。翌年に調布の自宅で死去。
また、2004年には、日中戦争末期の45年5月に毛沢東が野坂に早期に天皇制を廃止することに消極的姿勢を示す書簡を送っていたことが明らかになっている。著書に自伝『風雪の歩み』など。」
http://www.panda.hello-net.info/index.html
さざなみ通信「不破史観の確立と発展――『日本共産党の80年』の批判的検討(上)」より
「最も分厚い3巻本の『70年史』とそれ以前の党史との最も大きな違いの一つは、野坂参三に対する評価である。『70年史』が書かれるまでは、野坂は党の名誉議長(ないし議長)としての公的地位を保っており、過去に何度となく宮本顕治と対立しながらも、その対立面についてはほとんど記述されないか、意図的に野坂の名前が欠落したりしていた。とくに50年問題をめぐる記述ではそれが顕著であった。野坂が徳田とともに所感派を指導していたにもかかわらず、『70年史』以前は徳田の名前のみが挙げられるか、「徳田ら」と表記することで、野坂の役割を徹底的に隠蔽してきた。
しかしながら、野坂が1930年代の粛清期に山本懸蔵をソ連当局に売っていた事実、野坂がソ連共産党と「内通」していた事実などが明らかになると、こうした「隠蔽」は取り払われ、逆に野坂の果たしたマイナスの役割が、これでもかといわんばかりに、党史全体を通じて強調されるようになった。過去の党史における野坂の否定面の隠蔽も、『70年史』における野坂の否定面のあまりに露骨な突出も、バランスのある歴史記述とはいえない。とはいえ、野坂の独自の理論的立場を批判的に振り返ることは重要である。
http://www.linkclub.or.jp/~sazan-tu/sazanami/030/09.html
山川均自伝より。
「歴史をつくり変えることは共産党の学風です」(『山川均自伝』岩波書店、1961年)
閉めの言葉は恩師マルクス風に。
「共産党は自分じしんの歴史をつくる。だが、思うままにではない。党員たちがえらんだ環境のもとではなくて、すぐ目の前にある、持ち越されてきた官僚のもとでつくるのである。死せるすべての世代の伝統が夢魔のように生ける者の頭脳をおさえつけている」