1871年3月28日、パリ市庁舎でパリ・コンミューン樹立宣言。
パリ市民による選挙が行われた後、1871年3月28日にコミューンの成立が宣言され、以後同年5月20日までパリを統治することとなる。
第2帝政下の1870年7月、皇帝ナポレオン3世はプロイセンとの戦争(普仏戦争)を開始する。フランスはたちまち敗北して、そのうえセダンの戦いにおいて皇帝自身も捕虜となり、帝政は崩壊した。9月4日、共和制の宣言、国防政府はプロイセンとの戦争を続行。しかしプロイセン軍によって包囲されたパリでは食糧不足が深刻となり、1871年1月28日、ついに政府はプロイセンに対して正式に降伏した。国民議会がボルドーに招集される。1871年1月28 日、国防政府はヴェルサイユ休戦条約を締結し、オルレアン派−−七月王政のオルレアン王朝の支持者たち−−のティエールが国家元首に選出される。
パリ市民による選挙が行われた後、1871年3月28日にコミューンの成立が宣言され、以後同年5月20日までパリを統治することとなる。
第2帝政下の1870年7月、皇帝ナポレオン3世はプロイセンとの戦争(普仏戦争)を開始する。フランスはたちまち敗北して、そのうえセダンの戦いにおいて皇帝自身も捕虜となり、帝政は崩壊した。9月4日、共和制の宣言、国防政府はプロイセンとの戦争を続行。しかしプロイセン軍によって包囲されたパリでは食糧不足が深刻となり、1871年1月28日、ついに政府はプロイセンに対して正式に降伏した。国民議会がボルドーに招集される。1871年1月28 日、国防政府はヴェルサイユ休戦条約を締結し、オルレアン派−−七月王政のオルレアン王朝の支持者たち−−のティエールが国家元首に選出される。
しかしプロイセン軍のパリ包囲に抵抗し、多大なる犠牲を払
ったパリの民衆は、降伏を認めなかった。国民軍中央委員会の
もとに、フランスのあらゆる都市で、プロレタリアートは一人
残らず武器をとってプロイセンに抵抗するよう呼びかける。
「武装したパリは、反革命の陰謀を妨げる唯一の重大な障害
であった。だから、パリを武装解除しなければならなかった」
(カール・マルクス『フランスにおける内乱』)
ティエール政権は、プロレタリアートの手中に武器を渡すく
らいなら、プロイセンの軍門に下ったほうがよいと欲したのだ
。パリを武装解除する第一歩として、3月18日、モンマルトル
の丘に配備されていた大砲を奪取する夜襲をかける。しかしこ
の企ては、国民軍の抵抗と、政府軍の兵士と民衆との革命的合
流により打ち砕かれる。
「モンマルトルにたいする夜襲にくわわったボナパルト派将
校のひとり、ルコント将軍は、ピガル広場で武器をもたない群
集に発砲するよう、戦列軍第81連隊に4度も命令し、兵士が拒
絶したので、彼らを激しく罵った。彼自身の部下が、女や子供
を撃つかわりに、彼を撃った」(『フランスにおける内乱』)
この情報はまたたく間にパリ全域に伝わり、国民軍の地区大
隊を中心として、市内各地で一斉蜂起が開始される。政府軍は
ヴェルサイユに敗走した。国民軍中央委員会は、3月18日、こ
う宣言している。
「パリのプロレタリアは、支配階級の怠慢と裏切りとのなか
にあって、公務の指揮を自分たちの手ににぎることによって時
局を収集すべき時がきたことを理解した。……彼らは、政府権
力を掌握することによって自分自身の運命の主人となることが
、彼らのさしせまった義務であり、絶対的権利であることを理
解した。」
パリ・コミューンの最初の政令は、常備軍を廃止して、それ
を武装した民衆におきかえることだった。コミューンはパリの
各区から選出された、労働者を中心にした市会議員により構成
されていた。彼らは責任を負い、即座に解任することができた
。コミューンの議員をはじめとした公務員の賃金は労働者なみ
に引き下げられた。国家の高官たちの既得権と交際費は、高官
たちとともに姿を消した。マルクスはこういっている。
「労働し、考え、たたかい、血を流しつつあるパリは、−−
新社会を生み出すことに熱中するあまり、食人鬼が門前にいる
ことさえ忘れて−−その歴史的創意の熱情に輝いていた!」(
『フランスにおける内乱』)
コミューンのパリは、陽気で野蛮な、ほとんど能天気としか
いえない祝祭空間をなしていた。マルクスもいうように、コミ
ューンは敵に「寛大」でありすぎたのかもしれない。しかし、
もとよりプロイセン軍に包囲されている条件下では、フランス
銀行の資産没収、地方の農民との連帯にも着手することができ
なかった。ヴェルサイユのティエール政府軍は反撃に転じる。5
月21日には政府軍はパリ市内に入った。コミューンは、2万5000
人ともいわれる戦死者を出しながら、最後まで戦いをやめなか
った。そして5月28日のペール=ラシェーズ墓地の戦闘までの1
週間にわたる市街戦ののち、5月28日、パリ=コミューンは崩
壊する。
パリ・コミューンはあまりにも短命であった。しかし困難な
内戦のなかでも、直接民主制を基礎に、労働条件や生活条件の
改善、生産協同組合による労働者自主管理、公務員の完全な選
挙制と解任制、政教分離、教育の無償化と非国家化・非宗教化
など、労働者が自らの運命を自らで決するための、新しい社会
システムへの探求が続けられたのである。そして、フランス大
革命以来のパリの革命と民衆運動の伝統の最高の頂点にあるの
と同時に、これ以降の革命運動・社会運動の諸潮流に絶大なる
影響を与えていく。この問題については、またあらためて論じ
られることもあるだろう。
国際共産主義運動の革命歌「インターナショナル」は、パリ
.コミューンにおいて、革命家で詩人のE. ポティエが1871年
に作った詩がもとになっている。
http://utagoekissa.web.infoseek.co.jp/interIWA.html
ったパリの民衆は、降伏を認めなかった。国民軍中央委員会の
もとに、フランスのあらゆる都市で、プロレタリアートは一人
残らず武器をとってプロイセンに抵抗するよう呼びかける。
「武装したパリは、反革命の陰謀を妨げる唯一の重大な障害
であった。だから、パリを武装解除しなければならなかった」
(カール・マルクス『フランスにおける内乱』)
ティエール政権は、プロレタリアートの手中に武器を渡すく
らいなら、プロイセンの軍門に下ったほうがよいと欲したのだ
。パリを武装解除する第一歩として、3月18日、モンマルトル
の丘に配備されていた大砲を奪取する夜襲をかける。しかしこ
の企ては、国民軍の抵抗と、政府軍の兵士と民衆との革命的合
流により打ち砕かれる。
「モンマルトルにたいする夜襲にくわわったボナパルト派将
校のひとり、ルコント将軍は、ピガル広場で武器をもたない群
集に発砲するよう、戦列軍第81連隊に4度も命令し、兵士が拒
絶したので、彼らを激しく罵った。彼自身の部下が、女や子供
を撃つかわりに、彼を撃った」(『フランスにおける内乱』)
この情報はまたたく間にパリ全域に伝わり、国民軍の地区大
隊を中心として、市内各地で一斉蜂起が開始される。政府軍は
ヴェルサイユに敗走した。国民軍中央委員会は、3月18日、こ
う宣言している。
「パリのプロレタリアは、支配階級の怠慢と裏切りとのなか
にあって、公務の指揮を自分たちの手ににぎることによって時
局を収集すべき時がきたことを理解した。……彼らは、政府権
力を掌握することによって自分自身の運命の主人となることが
、彼らのさしせまった義務であり、絶対的権利であることを理
解した。」
パリ・コミューンの最初の政令は、常備軍を廃止して、それ
を武装した民衆におきかえることだった。コミューンはパリの
各区から選出された、労働者を中心にした市会議員により構成
されていた。彼らは責任を負い、即座に解任することができた
。コミューンの議員をはじめとした公務員の賃金は労働者なみ
に引き下げられた。国家の高官たちの既得権と交際費は、高官
たちとともに姿を消した。マルクスはこういっている。
「労働し、考え、たたかい、血を流しつつあるパリは、−−
新社会を生み出すことに熱中するあまり、食人鬼が門前にいる
ことさえ忘れて−−その歴史的創意の熱情に輝いていた!」(
『フランスにおける内乱』)
コミューンのパリは、陽気で野蛮な、ほとんど能天気としか
いえない祝祭空間をなしていた。マルクスもいうように、コミ
ューンは敵に「寛大」でありすぎたのかもしれない。しかし、
もとよりプロイセン軍に包囲されている条件下では、フランス
銀行の資産没収、地方の農民との連帯にも着手することができ
なかった。ヴェルサイユのティエール政府軍は反撃に転じる。5
月21日には政府軍はパリ市内に入った。コミューンは、2万5000
人ともいわれる戦死者を出しながら、最後まで戦いをやめなか
った。そして5月28日のペール=ラシェーズ墓地の戦闘までの1
週間にわたる市街戦ののち、5月28日、パリ=コミューンは崩
壊する。
パリ・コミューンはあまりにも短命であった。しかし困難な
内戦のなかでも、直接民主制を基礎に、労働条件や生活条件の
改善、生産協同組合による労働者自主管理、公務員の完全な選
挙制と解任制、政教分離、教育の無償化と非国家化・非宗教化
など、労働者が自らの運命を自らで決するための、新しい社会
システムへの探求が続けられたのである。そして、フランス大
革命以来のパリの革命と民衆運動の伝統の最高の頂点にあるの
と同時に、これ以降の革命運動・社会運動の諸潮流に絶大なる
影響を与えていく。この問題については、またあらためて論じ
られることもあるだろう。
国際共産主義運動の革命歌「インターナショナル」は、パリ
.コミューンにおいて、革命家で詩人のE. ポティエが1871年
に作った詩がもとになっている。
http://utagoekissa.web.infoseek.co.jp/interIWA.html