1837年(天保八年)3月27日、「大塩の乱」の首謀者・大塩平八郎、潜伏先に幕吏に踏み込まれ、自害。
「大塩平八郎終焉の地・碑文」より。
「大塩平八郎中斎(1793〜1837)は、江戸時代後期大坂町奉行所の与力で、陽明学者としても知られ、世を治める者の政治姿勢を問い、民衆の師父と慕われた。天保8年(1837)2月19日飢饉にあえぐ無告の民を救い、政治腐敗の根源を断とうとして、門人の武士・農民等を率いて決起した。
乱後大塩平八郎・格之助父子は、この地に隣接した靱油掛町の美吉屋五郎兵衛宅に潜伏したが、同年3月27日幕吏の包囲のうちに自焼して果てた。民衆に呼びかけた檄文は、密かに書き写され、全国にその挙を伝えた。大塩の行動は新しい時代の訪れを告げるものであり、その名は今もなお大阪市民に語り継がれている。
決起160年に当たり、全国の篤志を仰いでここに建碑する。
1997年9月
大塩事件研究会」
「大塩平八郎終焉の地・碑文」より。
「大塩平八郎中斎(1793〜1837)は、江戸時代後期大坂町奉行所の与力で、陽明学者としても知られ、世を治める者の政治姿勢を問い、民衆の師父と慕われた。天保8年(1837)2月19日飢饉にあえぐ無告の民を救い、政治腐敗の根源を断とうとして、門人の武士・農民等を率いて決起した。
乱後大塩平八郎・格之助父子は、この地に隣接した靱油掛町の美吉屋五郎兵衛宅に潜伏したが、同年3月27日幕吏の包囲のうちに自焼して果てた。民衆に呼びかけた檄文は、密かに書き写され、全国にその挙を伝えた。大塩の行動は新しい時代の訪れを告げるものであり、その名は今もなお大阪市民に語り継がれている。
決起160年に当たり、全国の篤志を仰いでここに建碑する。
1997年9月
大塩事件研究会」
大坂東町奉行所の元与力で陽明学者でもあった大塩平八郎は、奉行所の与力・同心やその子弟、近隣の豪農、そのもとに組織された農民ら約300人を率いて「救民」の旗をひるがえして蜂起する。しかし大塩の乱はわずか半日で鎮圧されてしまう。
大塩が飢饉の最中、幕府の役人と大坂の豪商の癒着・不正を断罪して、窮民救済を求めたのはよく知られている。大坂は江戸幕府の直轄都市だった。軍事や警備を担当する大坂城代以下の諸役職がおかれ、また、行政・司法を担当する町奉行がおかれていたが、他の城下町と比べると、武士身分は圧倒的に少数だった。大坂は「町人の町」というイメージが強い。しかし、武士身分なくして、近世の大坂を理解することはできない。
大阪歴史博物館が所蔵する史料に、「役録」とよばれる、刷り物がある。文政3年(1820年)の発行。表には大坂城代以下諸役職の名簿が掲載され、裏面には町奉行所の与力・同心の屋敷配置図が記載されて、大塩平八郎の名前も見える。この役録は、年2回改訂され販売されていた。これはなかなかどうして、江戸時代の大坂の住民にとって必要不可欠なものであった。
大坂町奉行は東町奉行と西町奉行の2名がおかれている。東は彦坂和泉守紹芳(1200石)、西は荒尾但馬守成章(300俵)である。それぞれ、御家老・御公用人・御取次・大目付・書翰の役、家臣団の名が列記されている。町奉行には与力・同心という助役が配属されていたが、それだけで行政・司法が運営されていたわけではなかったのである。
大坂町奉行は知行1500石の家格が必要とされる職務だったが、その実態はかけ離れていた。東町奉行の彦坂和泉守はともかくとして、西町奉行の荒尾但馬守はわずか300俵である。
低い知行高で、常時多くの家臣団を抱えられない者が町奉行に就任するときはどうしていたのだろうか。そのニーズに応えていたのが、「渡り用人」や「一季居(いっきおり)」といわれる武家奉公人層である。
この「ご奉行様のご奉公人様」たちが、大坂三郷から受け取る役得所得は、ほかの町に比べて格段に多かった。大坂三郷からの「年始銀」「八朔銀」「年中諸向到来」などの役職所得、株仲間からの付け届け、さらに訴訟、火事と、臨時収入にも事欠かなかった。ある町奉行の公用人の場合、主人からの給金収入は金 10両であったが、三郷からの役職所得は金115両あまりと10倍以上であった。大坂は今も昔もお役人様にはパラダイスらしい。
大塩の乱による火災は「大塩焼け」といわれ、大坂市中の5分の1を焼失する。大塩を恨みに思うものもいたが、家を焼かれた者のなかにも「大塩様」と敬意をもって語るものもいたと伝えられる。役人らしからぬ清廉にして高潔、峻烈にして勤勉な人物が、庶民に敬慕されたゆえんであろう。
大塩の乱はその日のうちに鎮圧され、厳重な捜査網が敷かれた。「年齢四十五〜四十六歳。面長で色白。目は切れ長、眉(まゆ)は細く濃く、額が開き月代(さかやき)が薄い。中肉中背。鼻と耳は普通」というのが大塩の人相書きである。
大塩は、大胆にも大坂市中に潜伏していた。3月27日の朝、幕府の捕吏が潜伏先に踏み込んだ。大塩は部屋に火をかけ、脇指で喉を突き、それを引き抜いて捕り方に投げつけ、壮絶な死を遂げる。火の回りが早く召捕方はどうすることもできなかった
焼死体として発見されたのは、実は替玉で、大塩は外国に脱出したと信じる人たちもいた。大阪市天王寺区龍淵寺の「秋篠昭足」という人物の墓碑には「乱に加わって大塩父子ほか五人と天草島(長崎県)に潜んだ後、清国に逃れた。のち大塩父子はヨーロッパに渡った」と刻まれている。
最後に、日本社会主義運動の祖、堺利彦による「講談 大塩騒動」の冒頭の一節を紹介する。「愛国新聞 第五号」 大正十三年四月十一日号に掲載された。
堺利彦「講談大塩騒動」
http://www.cwo.zaq.ne.jp/oshio-revolt-m/sakait.htm
「読者諸君の中には天保銭といふものを知らない人もあるだらう、何しろアノ小判形の真ん中に四角な穴のあいた、アノ大きなズウ体をしてゐながら、明治の世の中では八厘にしか通用しなかつたのだから、「少し足らん」といふ符牒に便われたも無理はない。五銭の穴あき白銅を大正時代のシンボルとするなら、天保銭は即ち天保時代のシンボルだ。
然し「天保人間」といふ言葉は必ずしも「少し足らん」人間といふ意味ではなかつた。旧弊な人間、頑固な人間、時勢後れの人間が即ち「天保人間」だつた。今日生き残つてゐる「天保人間」は、清浦西園寺松方あたりより外には先づあるまい。所が、あの人達は夜店にも出されず、今だに何んのかのと頑張つて居るから驚く。
余談はさておき、其の天保の八年に大塩騒動が起つた。丁度今から八十六年前と云ふと、随分古い昔のようにも聞ゑるが、その中から大正の十二年と、明治の四十四年と合せて五十六年を引き去ると、あとはたつた三十年だ。徳川幕府の倒れた時から只つた三十年前の事だ。何しろ当時は、二百幾十年の太平が打ち続いた後であつて、そこに忽然として、ソレ火矢だ、鉄砲だ、それ謀叛だと来たのだから、謂ゆる晴天の霹靂なるもので全く途方もない大騒動であつた。然るに其の大騒動が只つた一日で鎮まり、其の跡片付も一と月二た月の中に済んでしまふと、人間といふ奴は馬鹿なもので、徳川の御代は又万々歳だと思いこんでゐた。所が、それから只つた三十年で明治の新社会が生まれた。世の中の変遷といふ事を考えると、面白くもあれば恐ろしくもある。
実はも少しこゝで何か小理窟を云つて見たいと思ふのだが、まあ云はずに置く。私が云うよりか、諸君に考へて貰ふ方がいゝだろう。」
大塩が飢饉の最中、幕府の役人と大坂の豪商の癒着・不正を断罪して、窮民救済を求めたのはよく知られている。大坂は江戸幕府の直轄都市だった。軍事や警備を担当する大坂城代以下の諸役職がおかれ、また、行政・司法を担当する町奉行がおかれていたが、他の城下町と比べると、武士身分は圧倒的に少数だった。大坂は「町人の町」というイメージが強い。しかし、武士身分なくして、近世の大坂を理解することはできない。
大阪歴史博物館が所蔵する史料に、「役録」とよばれる、刷り物がある。文政3年(1820年)の発行。表には大坂城代以下諸役職の名簿が掲載され、裏面には町奉行所の与力・同心の屋敷配置図が記載されて、大塩平八郎の名前も見える。この役録は、年2回改訂され販売されていた。これはなかなかどうして、江戸時代の大坂の住民にとって必要不可欠なものであった。
大坂町奉行は東町奉行と西町奉行の2名がおかれている。東は彦坂和泉守紹芳(1200石)、西は荒尾但馬守成章(300俵)である。それぞれ、御家老・御公用人・御取次・大目付・書翰の役、家臣団の名が列記されている。町奉行には与力・同心という助役が配属されていたが、それだけで行政・司法が運営されていたわけではなかったのである。
大坂町奉行は知行1500石の家格が必要とされる職務だったが、その実態はかけ離れていた。東町奉行の彦坂和泉守はともかくとして、西町奉行の荒尾但馬守はわずか300俵である。
低い知行高で、常時多くの家臣団を抱えられない者が町奉行に就任するときはどうしていたのだろうか。そのニーズに応えていたのが、「渡り用人」や「一季居(いっきおり)」といわれる武家奉公人層である。
この「ご奉行様のご奉公人様」たちが、大坂三郷から受け取る役得所得は、ほかの町に比べて格段に多かった。大坂三郷からの「年始銀」「八朔銀」「年中諸向到来」などの役職所得、株仲間からの付け届け、さらに訴訟、火事と、臨時収入にも事欠かなかった。ある町奉行の公用人の場合、主人からの給金収入は金 10両であったが、三郷からの役職所得は金115両あまりと10倍以上であった。大坂は今も昔もお役人様にはパラダイスらしい。
大塩の乱による火災は「大塩焼け」といわれ、大坂市中の5分の1を焼失する。大塩を恨みに思うものもいたが、家を焼かれた者のなかにも「大塩様」と敬意をもって語るものもいたと伝えられる。役人らしからぬ清廉にして高潔、峻烈にして勤勉な人物が、庶民に敬慕されたゆえんであろう。
大塩の乱はその日のうちに鎮圧され、厳重な捜査網が敷かれた。「年齢四十五〜四十六歳。面長で色白。目は切れ長、眉(まゆ)は細く濃く、額が開き月代(さかやき)が薄い。中肉中背。鼻と耳は普通」というのが大塩の人相書きである。
大塩は、大胆にも大坂市中に潜伏していた。3月27日の朝、幕府の捕吏が潜伏先に踏み込んだ。大塩は部屋に火をかけ、脇指で喉を突き、それを引き抜いて捕り方に投げつけ、壮絶な死を遂げる。火の回りが早く召捕方はどうすることもできなかった
焼死体として発見されたのは、実は替玉で、大塩は外国に脱出したと信じる人たちもいた。大阪市天王寺区龍淵寺の「秋篠昭足」という人物の墓碑には「乱に加わって大塩父子ほか五人と天草島(長崎県)に潜んだ後、清国に逃れた。のち大塩父子はヨーロッパに渡った」と刻まれている。
最後に、日本社会主義運動の祖、堺利彦による「講談 大塩騒動」の冒頭の一節を紹介する。「愛国新聞 第五号」 大正十三年四月十一日号に掲載された。
堺利彦「講談大塩騒動」
http://www.cwo.zaq.ne.jp/oshio-revolt-m/sakait.htm
「読者諸君の中には天保銭といふものを知らない人もあるだらう、何しろアノ小判形の真ん中に四角な穴のあいた、アノ大きなズウ体をしてゐながら、明治の世の中では八厘にしか通用しなかつたのだから、「少し足らん」といふ符牒に便われたも無理はない。五銭の穴あき白銅を大正時代のシンボルとするなら、天保銭は即ち天保時代のシンボルだ。
然し「天保人間」といふ言葉は必ずしも「少し足らん」人間といふ意味ではなかつた。旧弊な人間、頑固な人間、時勢後れの人間が即ち「天保人間」だつた。今日生き残つてゐる「天保人間」は、清浦西園寺松方あたりより外には先づあるまい。所が、あの人達は夜店にも出されず、今だに何んのかのと頑張つて居るから驚く。
余談はさておき、其の天保の八年に大塩騒動が起つた。丁度今から八十六年前と云ふと、随分古い昔のようにも聞ゑるが、その中から大正の十二年と、明治の四十四年と合せて五十六年を引き去ると、あとはたつた三十年だ。徳川幕府の倒れた時から只つた三十年前の事だ。何しろ当時は、二百幾十年の太平が打ち続いた後であつて、そこに忽然として、ソレ火矢だ、鉄砲だ、それ謀叛だと来たのだから、謂ゆる晴天の霹靂なるもので全く途方もない大騒動であつた。然るに其の大騒動が只つた一日で鎮まり、其の跡片付も一と月二た月の中に済んでしまふと、人間といふ奴は馬鹿なもので、徳川の御代は又万々歳だと思いこんでゐた。所が、それから只つた三十年で明治の新社会が生まれた。世の中の変遷といふ事を考えると、面白くもあれば恐ろしくもある。
実はも少しこゝで何か小理窟を云つて見たいと思ふのだが、まあ云はずに置く。私が云うよりか、諸君に考へて貰ふ方がいゝだろう。」