1978年3月26日、成田空港管制塔占拠闘争。

この日、開港を4日後に控えていた成田空港管制塔に、第四インターを中心とする空港反対派支援勢力が突入して占拠。管制塔を破壊して、成田空港空港の開港を実力で「粉砕」する。

東京国際空港(羽田空港)に替わる『新東京国際空港』構想は、高度経済成長に伴う1950年代後半頃から出てきたものだった。1960年代前半には千葉県富里町でほぼ決定し、地元自治体との調整や用地買収などの交渉が開始されている。

しかし富里町住民はこの計画に抵抗、話し合いは難航した。1966年7月4日、当時の佐藤内閣は富里町への新空港誘致を断念、突如として成田市三里塚の地を新空港建設地に決定する。三里塚の農民には一言の相談もないまま、閣議決定が強行されたのである。 

三里塚農民は、復員軍人、海外からの引揚者、疎開者など、敗戦後にこの土地に入植した人たちである。農業の経験のまったくない人たちも少なからずいた。入植者たちは、原野に素手でいどみ、一本一本の抜根、一鍬一鍬の開墾を通して、その日を生きるために明け暮れてきた。ようやく軌道に乗って、幸福をつかみかけた時の、時の政府の寝耳の水の空港誘致決定である。
三里塚農民は怒った。出ていけだと? 政府の決定がどうあろうと、自分達の農地は自分たちの手で守らねばならない! ここに三里塚・芝山連合空港反対同盟が結成された。1967年より三派全学連が支援に加わり、三里塚闘争は戦後最大級の住民闘争に発展する。

政府と空港公団は機動隊を総動員して、1971年2月〜3月に第一次代執行を強行。一期工事区域内の一坪運動用地を強制収用する。1171人(警官含む)負傷、逮捕者291人。同年9月に第二次代執行。機動隊と反対派が激突した東峰十字路戦闘では、機動隊3名が死亡する。しかし、最後まで抵抗しぬいた大木よね(小泉よね)も、家・宅地・田を強制収用されてしまう。

1973年には、政府はどうにか1本目の滑走路の建設にこぎつける。そして1978年3月30日の空港開港に向けて、政府は沖縄を除いた全国より1万 4000人の機動隊を導入して、厳戒態勢をしいた。しかしそのたくらみをあざ笑うかのように、忽然と、赤ヘルメットの3000のゲリラが出現したのであった。以下、「第4インターナショナルファンクラブ」の赤色土竜党を主催する、まっぺん氏のサイトから引用する。

「1978年3月26日、三里塚開港阻止決戦は前日の横堀要塞戦によって始まった。要塞上には鉄塔が高々と組み上げられ、アドバルーンがあがった。 三里塚公園は全国から結集した万余の労・学・市民で埋めつくされ、戦いに向け決意にみなぎる。しかしそこには幾つかのセクトを中心とする主力部隊の姿が見えない。どこにいったのだ?
 彼らは菱田小学校跡地に結集していた。そこから出撃した三千の実力部隊。その一隊は第四・第五ゲートへと突撃し猛攻を開始した。さらに松翁交差点から出現した一千四百の赤ヘル部隊! 改造装甲トラックを先頭に空港心臓部へ向けて進撃する。第八ゲートを突破し敵陣深く突入し管制塔直下まで肉迫する突入部隊。たちまちにして空港内は戦場となり、火炎ビンの火柱が次々とあがる。鉄パイプの猛攻に逃げまどう警察機動隊! 恐怖におびえ実弾を発射する空港警察隊! 火を噴く警察車両! 妨害電波と「ピンクレディ」の音楽に撹乱され、警察無線は役に立たない! 指揮系統はボロボロとなり、一万四千の機動隊防衛網はズタズタに引き裂かれたのである。
 さらに猛攻は続く! 第九ゲートから突入したトラック部隊は火だるまとなって警察車両に突進した。地下水道から躍り出た精鋭突入部隊! 管理棟をかけ登り、管制室へ殺到。そして管制機器を破壊しつくし、4月開港を打ち砕いたのである。「包囲・突入・占拠」闘争は文字どおり実現された!!」

この闘争はDVDにもなっている。詳しくは以下のサイトを参照にされたい。
DVD『大義の春』
http://redmole.m78.com/taigi.html

三里塚農民、染谷かつは、この日の感想をこのように語っている。

 「うれしかっただよ。三里塚公園で集会の最中、大勝利した、空港を占拠したって知らせあったの。もう大変な拍手だった。
 夜テレビでみたの。高いところ壊した青年、にっこり笑って出てただよ。
 青年たちの心、農民の心と変わりねえべえ。変わらないどころか、神様だよ。いくら反対同盟がんばっても、あんだけのことできやしねえ。
 そしたらよね婆さん生きてたらどんなに喜んだかって思って、集会終わったらすぐよね婆さんの墓へとんでいっただよ。東峰の共同墓地のまんなかにいるだよ。死ぬまでいい目に合わなかったもんな。せっせと働いて、畑も家も公団にとられちまっただよ。
 で、掌合わせてよね婆さんにいっただよ。青年がえらいことしてくれたぞ、飛行機とめてくれたぞ、大勝利だぞって」

1978年5月20日、成田空港は滑走路がたった1本の片肺空港として不完全ながらも開港した。

挫折感を味わって、土地を手放して運動から去っていった農民たちも少なくなかった。すでに成田空港は開港してしまったのだ。反対同盟の内部にも、路線対立から食い違いが生じていく。状況が変化しているのに十数年前と「話し合い路線拒否」でいいのか? 空港の騒音対策の「見返り事業」である「成田用水事業」を、自主的な整備事業として推進する動きも急速に広まっていった。

決定的だったのは、「一坪再共有化問題」をめぐる内部対立だった。再共有化運動とは、空港二期工事予定地内にある反対派農民の農地の一坪用地を再共有化するため、新たに全国から一口一万円で再共有者を募集し、地主を増やし政府側の土地収用手続きを複雑化させる目的をもつものであった。

これは空港反対闘争初期以来の戦術である。しかし当初700人ほどいた一坪共有者も、その頃には200人程度に減少していたといわれる。1981年にフランスのラルザックを訪問した反対同盟の代表団は、一坪再共有化が軍事基地拡張反対闘争の有力な戦術であることを再認識して、空港反対闘争の最重要課題としてこの路線を提案する。

この再共有化運動に対して、二期工事予定地内の農民には「絶対に土地を売らない闘いを貫くなら、二期工事着工は絶対に不可能」「全国の不特定多数の人に土地を売り渡すこの運動は闘争を堕落させる金もうけ主義」「結局のところ空港公団に土地を売り渡していく運動」であるとの反対論が相次いだ。

この後、一坪再共有化推進派は「熱田派」(熱田一行動隊長)、反対派は「北原派」(北原鉱治事務局長)へと分裂する。さらに、一坪共有化運動を推進した第四インターと、敷地内農民の「農地死守路線」を支持した中核派の対立も激化する。中核派は個人テロも含めた第4インターに対する襲撃路線を強め、この分裂を決定的なものにしてしまう。

しかし、管制塔占拠闘争の先頭に立ち、70年代に中核・革マル・解放派の「内ゲバ」に反対し抜いてきた第4インターも、三里塚現闘幹部の支援の女性活動家に対するレイプ事件が発覚。実行者は複数いたことから「ABCD問題」ともいわれ、急速に影響力を失い、分派闘争の果てに分解する。

新左翼諸セクトはすでに見る影もないが、成田空港が2本目の滑走路を作ることがいつまでもできないのも事実である。染谷かつがこの日の管制塔占拠闘争の「勝利」を、その霊前に報告しにいったという、大木よねの言葉を引用して、この項を終える。

「おら、七つのとき子守りに出されて、なにやるったってひとりでやるには無我夢中だった。おもしろいこと、ほがらかにくらしたってのなかったね。だから闘争が一番楽しかっただ。もう、おらの身はおらの身であっておらの身でねえだから、おら反対同盟さ身預けてあるだから、6年間も反対同盟や支援の人達と反対闘争やってきたんだから、誰がなんといっても、こぎつけるときまで頑張ります。みなさんも一緒に頑張りましょう。」

 おらの身はおらの身であっておらの身でねえ。これほど見事に的確に社会主義の思想を表現しえたことばがあるだろうか?