1933年3月23日、 ドイツで「民族と帝国の困難を除去する法律」(授権法)可決。ヒトラー政権が独裁権を獲得する。

 すでに共産党員の国会議員資格は剥奪されていた。社会民主党はこの法案に反対票を投じたが、すでに無力だった。ナチ党はこの授権法により、国会を事実上無効にしてしまう。

 もしもドイツ共産党とドイツ社会民主党という二大労働者政党が協力しあっていたら、ナチスの権力掌握を阻止できたかもしれない。今でも議論になるところである。しかし恐らく、共産党と社民党は、「お互い非難はしない」という紳士協定以上のことはできなかっただろう。当時の情勢では、とてもとても、協調は不可能であったろう。たとえば、1932年11月7日に始まるベルリン交通ストである。

ベルリン交通のストは、ドイツ共産党とナチ党がいっしょに組織したものだ。ストにはだれも文句はない。二年間で六度目の賃金削減! これは賃金のピンハネだ。だまってはいられない。それでも、ナチ党と共産党が手を組んだのはちょっとした奇跡だ。ストの見張りにナチ党員と共産党員が並んで立っている。それには、みんな、首をかしげ、何度もふりかえる。『ボスどもに反対』それが共同スローガンだ。ベルリン交通首脳陣にいる社会民主党の大物たちを当てこすったものだ。(中略)
 ナチ党が選挙のためにストをしているというのはほとんど周知の事実だ。ビュートゥ主任もいっていた。だが、ヘレの同志のすることが、ビュートゥ主任には理解できなかった。
 『やっていいことと悪いことがある』ビュートゥ主任はハンスにいった。『われわれのことを社会ファシストと呼ぶだけでも、ひどすぎるのに、今度はなんだ。共産党のしていることは、悪魔と一緒に踊りを踊っているようなものだぞ。いずれ地獄を見るぞ。われわれも道連れだ』
 共産党員のなかにも似たような考えをもつ人が多かった。だが党の決定は絶対だ。選挙を目の前にして、事を荒立てるわけにはいかない。共産党は負ける一方で、まったく進展の見られない選挙の連続に、みんな青色吐息だった。」(『ベルリン1933』クラウス・クルドン)。

西欧の帝国主義列強(イギリス・フランス)に対抗するという政策では、ナチス党と共産党の利害は一致していたのだ。スターリンは、ヒトラーには西側と戦争をやらせておいたらいいと考えていたようである。その間に、ドイツでは着々と社会主義の地歩が築けるではないか、と。コミンテルンと同志スターリンの権威は、今のわれわれには想像もつかないほど絶対的なものであった。わがドイツの共産主義者同志は、不承不承ながらも、同志スターリンの「ドイツ社会民主党=社会ファシスト」演説を受け入れざるをえなかったのである。

 しかしナチス党と共産党の「蜜月」ははかなく短いものであった。1933年、2月27日夜、国会議事堂が放火されて全焼する。犯人としてオランダ人の共産主義者ファン・デア・ルッペが逮捕された。政府は事件の調査をまたずに、共産党の仕業と断定し、憲法の基本的人権停止、州権への介入を定めた大統領緊急令を発した。プロイセン州だけでも、2週間で8000名以上の共産党員が拘束された。ドイツ共産党の国会議員資格も剥奪される。この事件は当時から、ナチスの陰謀だと噂され、戦後もこの説が信じられたが、現在ではルッペ単独犯説が有力である。もちろん、この事件がなくても、ヒトラーやナチスの行動は変わらなかっただろう。

 なぜこんなことになってしまったのだろうか。ナチスのイデオローグでもあった公法学者シュミットの独裁論をヒントに考えてみよう。

 『現代議会主義の精神的地位』(1923年)において、シュミットは議会制民主主義に「死亡宣告」を下している。議会はみせかけの「公開」と「議論」にすぎない。実際には議会外において、政党幹部・財界・官僚・軍幹部が事実上の決定を行っているではないか? ここでシュミットが議会制度に代わるものとして提唱するのは、新しい「独裁」の政治形態であった。そして1922年に誕生したムッソリーニのファシズム政権を例に、それがマルクス的「階級神話」にもとづくものでなく、「民族神話」に基づく政治権力の出現であるとして称讃した。シュミットはヴァイマール憲法第48条の「非常事態発生時における大統領の権限規定」を軸に、祖国ドイツの復権を果たすための独裁論を追求していったのだった。

 これは「ナチズムの思想」そのものではないのか? たしかにその通りである。しかしニーチェやハイデガーが今も読むに値する古典であるように、シュミット「独裁」論が、今も創意と独創にあふれる、政治学の古典であるのも間違いないことである。シュミットが「委任独裁」と「主権独裁」の峻別したことは、今も注目に値する。独裁は専制とイコールではない。「主権独裁」とは、「非常事態」を解決するためのあくまでも「手段」であって、そのものが目的とされることはないし、恒常的なものでもない。シュミットのこの規定に、マルクスやレーニンに慣れ親しんだ者たちは、よく似た「独裁」の例を知っている。そう、プロレタリア独裁である。「委任独裁」を授権する議会制民主主義を否定した、シュミット=ナチスの「主権独裁=民族独裁」のコンセプトは、マルクス主義の「階級独裁」のインパクトなくしては考えられないものであった。

 「最近の著述、ラディカリズムに関するレーニンの(1920年)、また反カウツキーと題するトロツキーのそれらにおいて、このことはいっそう明確化する。すなわち、ブルジョアジーは『歴史によって没落を運命づけられた階級』であり、プロレタリアは、『歴史的に興隆する階級』なるがゆえに、歴史的に没落する階級に対し、歴史的発展にとって有効であるとみずからの考える、あらゆる暴力行使の権利をもつ。未来の側に立つ者は、滅びゆくものを、さらになお突き落とすことが許されるのである」(カール・シュミット『独裁』未来社)

 プロレタリアートを「ゲルマン民族」、ブルジョアジーを「ユダヤ人」と読み替えたら、まさにナチズムの哲学そのものである。シュミットが「マルクス主義」「プロレタリア独裁」について語っていることは、全くの誤解・偏見・曲解であるということもできよう。だが、本当に大切な問題はそんなところにはない。ここで槍玉にあがっている、当のレーニンの言葉に耳を傾けてみたい。

 「なるほど、ドイツの共産主義者たちにとっては、議会主義は『政治的に寿命がつきている』。だが、問題はまさにつぎの点にある。つまり、われわれにとって寿命のつきたものでも、それを階級にとって寿命のつきたもの、大衆にとって寿命のつきたものととりちがえるべきでないということだ」(『共産主義における左翼「小児」病』)

 このレーニンのごくまっとうな批判は、保守系イデオローグのシュミットはもちろん、当の共産主義者たちにも、真剣に受け止められることはなかった。ナチズムとスターリニズム、この二つの全体主義という古くて新しい問題は、「政治不信」「政党不信」のいま、私たちに鋭く突きつけられているといえよう。