平出修歿。歌人・小説家・弁護士。大逆事件弁護人、享年35歳。
1910年(明治43)5月、宮下太吉の爆裂弾製造・所持の発覚に始まる、社会主義者・無政府主義者への大弾圧事件。幸徳ら12名が死刑、12名が無期懲役、2名が有期懲役に処せられた。
1910年(明治43)5月、宮下太吉の爆裂弾製造・所持の発覚に始まる、社会主義者・無政府主義者への大弾圧事件。幸徳ら12名が死刑、12名が無期懲役、2名が有期懲役に処せられた。
宮下太吉らは明治天皇への攻撃を計画していたといわれるが、はたして本当に実行するつもりだったのか、その計画は実に現実性に乏しい、曖昧なものだった。幸徳秋水は、その無政府主義的直接行動論から、計画の中心人物とされ死刑判決を受けたが、これは全くのフレームアップである。
「私はまた今回の検事局および予審廷の調べにおいて、直接行動ということが、やはり暴力革命とか、爆弾を用うる暴挙とかいうこととほとんど同義に解せられている観があるのに驚きました。直接行動は英語のジレクト・アクションを訳したもので、欧米で一般に労働運動に用うる言葉です。労働組合の職工の中には無政府党もあり、忠君愛国論者もあるので、別に無政府主義者の専有の言葉ではありません。そしてその意味するところは、労働組合全体の利益を増進するのには、議会に御頼み申しても埒が明かぬ、労働者のことは労働者自身で運動せねばならぬ。議員を介する間接運動でなくして、労働者自身が直接に運動しよう、すなわち総代を出さないで自分らで押し出そうというに過ぎないのです」(「大逆事件・陳弁書」1910年12月)
平出隆は、1878(明治11)、新潟県生まれ。 明治法律学校(現・明治大学)で法律を学びながら、与謝野寛(号鉄幹)の主宰した文学結社「東京新詩社」の同人になる。1903年(明治36)7月、明治法律学校を卒業後は、判検事登用試験に合格して司法官補に任じられるも、ほどなく辞職、弁護士の道を歩んだ。1908年(明治41)の『明星』廃刊後には、自宅に発行所を置いて、『スバル』発行人となる。社会主義運動・無政府主義運動とは全く関わりがない平出が、大逆事件の弁護団の一人になったのは、与謝野寛の依頼によるものだったという。
「若し仮に僕が裁判長として判決するなら、管野すが子・宮下太吉・新村忠雄・古河力作の四人を死刑に、幸徳・大石の二人を無期に内山愚堂を不敬罪で五年位、そしてあとは全部無罪にするのが、法律上からいっても最も妥当だと思ふ」
公判後、平出隆が『スバル』編集人の一人だった石川啄木に語ったということばである。大逆事件の審理は、大審院の特別裁判所で秘密裡に審理を終えた。啄木は、毎日のように平井を訪ねて、公判内容について聞き、公判記録の研究にあたっている。明治43年の『創作』10月号に発表された「時代閉塞の現状を如何にせむ秋に入りてことに斯く思ふかな」は、大逆事件が当時の青年たちに与えた影響の大きさを物語っている。
小説家・平出修には、幸徳秋水と菅野スガをモデルにした「計画」などの作品がある。青空文庫で読むことができる。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000080/card4144.html
「私はまた今回の検事局および予審廷の調べにおいて、直接行動ということが、やはり暴力革命とか、爆弾を用うる暴挙とかいうこととほとんど同義に解せられている観があるのに驚きました。直接行動は英語のジレクト・アクションを訳したもので、欧米で一般に労働運動に用うる言葉です。労働組合の職工の中には無政府党もあり、忠君愛国論者もあるので、別に無政府主義者の専有の言葉ではありません。そしてその意味するところは、労働組合全体の利益を増進するのには、議会に御頼み申しても埒が明かぬ、労働者のことは労働者自身で運動せねばならぬ。議員を介する間接運動でなくして、労働者自身が直接に運動しよう、すなわち総代を出さないで自分らで押し出そうというに過ぎないのです」(「大逆事件・陳弁書」1910年12月)
平出隆は、1878(明治11)、新潟県生まれ。 明治法律学校(現・明治大学)で法律を学びながら、与謝野寛(号鉄幹)の主宰した文学結社「東京新詩社」の同人になる。1903年(明治36)7月、明治法律学校を卒業後は、判検事登用試験に合格して司法官補に任じられるも、ほどなく辞職、弁護士の道を歩んだ。1908年(明治41)の『明星』廃刊後には、自宅に発行所を置いて、『スバル』発行人となる。社会主義運動・無政府主義運動とは全く関わりがない平出が、大逆事件の弁護団の一人になったのは、与謝野寛の依頼によるものだったという。
「若し仮に僕が裁判長として判決するなら、管野すが子・宮下太吉・新村忠雄・古河力作の四人を死刑に、幸徳・大石の二人を無期に内山愚堂を不敬罪で五年位、そしてあとは全部無罪にするのが、法律上からいっても最も妥当だと思ふ」
公判後、平出隆が『スバル』編集人の一人だった石川啄木に語ったということばである。大逆事件の審理は、大審院の特別裁判所で秘密裡に審理を終えた。啄木は、毎日のように平井を訪ねて、公判内容について聞き、公判記録の研究にあたっている。明治43年の『創作』10月号に発表された「時代閉塞の現状を如何にせむ秋に入りてことに斯く思ふかな」は、大逆事件が当時の青年たちに与えた影響の大きさを物語っている。
小説家・平出修には、幸徳秋水と菅野スガをモデルにした「計画」などの作品がある。青空文庫で読むことができる。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000080/card4144.html