小林多喜二(1903−1933)の『一九二八・三・一五』は、小樽署の壁に記された<日本共産党万歳!>で終る。1928年のこの日の未明、日本共産党を狙った一斉弾圧事件がこの小説の背景である。
この当時の日本共産主義運動は、大正デモクラシーで育った優秀な人材を擁して、絶頂期にあったといわれる。1928年2月の第1回普通選挙では無産政党が進出し、日本共産党は「赤旗」を創刊し、党員を労農党から立候補させて公然と活動しはじめた。これに脅威を抱いた田中内閣は、1928年3月15日未明、1道3府27県にわたって日本共産党はじめ労働農民党・日本労働組合評議会・全日本無産青年同盟の関係者など1,568名を治安維持法違反容疑で検挙。さらに4月10日労働農民党以下3団体の結社を禁止し解散を命じた。小林多喜二の作品は小樽における逮捕と拷問を主題としたものである。
◆参考サイト
http://www.c20.jp/1928/03315ji.html
この一斉弾圧により、日本共産党は壊滅的な打撃を受ける。被検挙者は拷問死させられるなど、特高警察による弾圧は暴虐を極めるものだった。小林多喜二もその犠牲者の一人だった。
当時、共産党に結集したインテリは、純粋で、自己犠牲精神に満ちた、誇り高い反戦主義者だった。しかしなぜそのインテリたちが、弾圧に敗れ去ったばかりか、一斉になだれを撃つように転向して、戦争協力の道をまっしぐらに進んでいったのだろうか。また、帝国主義戦争に反対する運動が、戦争で真っ先に犠牲になるはずの労働者や農民のなかに、ついに根ざすことがなかったのはなぜなのだろうか。
この問題については、戦後、鶴見俊輔らの『共同研究・転向』、吉本隆明による「転向論」などの優れた論考があるが、ここでは3・15事件で検挙された青年の一人である石堂清倫(1904−2001)の同時代の証言を引いてみよう。石堂はいう。日本人の革命的主体の確立がなかったからだと。当時の共産主義者たちは、コミンテルンの方ばかりに顔を向け、ソ連防衛の任務に忠実なあまり、日本の現実を自分の目でみて、反戦のための連帯と団結を実現するような共同の知恵を探ろうとしなかったからだと。「1928・3・15」の教訓は、今も古くて新しい問題をはらんでいるといえるだろう。
◆参考サイト
http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/isido3.htm
◆参考サイト
http://www.c20.jp/1928/03315ji.html
この一斉弾圧により、日本共産党は壊滅的な打撃を受ける。被検挙者は拷問死させられるなど、特高警察による弾圧は暴虐を極めるものだった。小林多喜二もその犠牲者の一人だった。
当時、共産党に結集したインテリは、純粋で、自己犠牲精神に満ちた、誇り高い反戦主義者だった。しかしなぜそのインテリたちが、弾圧に敗れ去ったばかりか、一斉になだれを撃つように転向して、戦争協力の道をまっしぐらに進んでいったのだろうか。また、帝国主義戦争に反対する運動が、戦争で真っ先に犠牲になるはずの労働者や農民のなかに、ついに根ざすことがなかったのはなぜなのだろうか。
この問題については、戦後、鶴見俊輔らの『共同研究・転向』、吉本隆明による「転向論」などの優れた論考があるが、ここでは3・15事件で検挙された青年の一人である石堂清倫(1904−2001)の同時代の証言を引いてみよう。石堂はいう。日本人の革命的主体の確立がなかったからだと。当時の共産主義者たちは、コミンテルンの方ばかりに顔を向け、ソ連防衛の任務に忠実なあまり、日本の現実を自分の目でみて、反戦のための連帯と団結を実現するような共同の知恵を探ろうとしなかったからだと。「1928・3・15」の教訓は、今も古くて新しい問題をはらんでいるといえるだろう。
◆参考サイト
http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/isido3.htm