日本共産党・民青同盟悪魔の辞典+

日本共産党や民青同盟、またやりよった……ぼやきのブログ

カテゴリ: 毎日が革命記念日!(春)

(今日の暦)
続きを読む

1972年5月30日、日本赤軍によるテルアビブのリッダ空港襲撃事件。

 「 遺書(父母への手紙)    奥平剛士
 ご無沙汰しております。今ローマから書いています。これが最後の手紙になるでしょう。国を出る時から生きて帰ることはないときめていましたが、不思議に今まで生きのびて、多くの人にあい、多くの事を知り、そして、最初の考え通りの路を行こうとしていること、何度考えても、ありがたい事だと感じます。思う通り、わがままいっぱいにさせていただきましたこと、お礼の言いようもありません。ついに孝養のこの字もさせていただくひまもありませんでしたが、もしも任務が許すならば、いつも第一にそれをしたいと思い続けていた事は、わかって下さい。我々兵士にとっては死はごく当然の日常事ですが、ただお二人が嘆かれるだろうこと、それだけが今僕の心を悲しませます。ベトナムで今死んでいく数千の若い兵士、こちらで、又、世界の至る所で、革命のために死のうとしている若い兵士たち、僕らもその一人だし、あなたがたも彼らのために泣いている何千何万の父や母の一人であること、こうした我々の血と涙だけが何か価値のある物を、作り出すであろう事をいつもおぼえていて下さい。
 ローマの空は明るく、風は甘いです。町は光にあふれています。少年時よみふけった、プリューターク*の思い出が町の至る所で、僕を熱くさせます。仕事がすみしだいお二人のもとに帰ります。
 ではお元気で。さようなら

                                           剛士

 お守りはちゃんと持って行きます。写真**といっしょに。(1972年5月29日)」

続きを読む

 1789年5月29日、クナシリ(国後)蜂起。

 1789年、まずクナシリ島で蜂起ののろしがあがった。マメキリ、ホニシアイヌ、イヌクマ、サケチレ、セツハヤフなどをリーダーにして、全島のアイヌが運上屋を襲撃したのである。そして松前藩の役人竹田勘平、支配人左兵衛、番人等に十数名をことごとく打ち殺して、対岸のメナシ(目領)へとなだれこんだ。そしてメナシのアイヌにも蜂起が拡大する。続きを読む

 5月28日、パリ・コミューン崩壊。


 捕らえられた者たちは、騎兵や憲兵に護送されて、追い立てられながらヴェルサイユに送られた。つまずいてころんだりすると、銃剣でつついて立ち上がらせた。落伍したものはピストルで撃ち殺した。あるいは馬の尻尾でしばりつけた。こして男も女も、子どもも老人までもが連れられていったのだ。
続きを読む

 1797年5月27日、フランソワ=ノエル・バブーフ、獄中で自殺を試みる。

 「革命はまだ完結していない。すべての財産は独裁者として支配している金持ちが所有して、貧民は困窮の状態で奴隷のように働き、それでも国からは軽視されているからだ」(バブーフ)続きを読む

 1933年5月26日、京大法学部の教授31名全員が辞表を提出。文相鳩山一郎による滝川幸辰教授の強制免官に対する、教授団と学生による抵抗運動。

 滝川事件(京大事件)の発端は、国粋右翼団体「原理日本社」の蓑田胸喜・三井甲之らが「司法官赤化事件と帝大赤化教授」と題したパンフレットを配布したことに始まる。東大の美濃部達吉、牧野英一、京大の滝川幸辰らを、「赤化教授」とレッテルをはり、執拗に攻撃した。続きを読む

 1895年5月25日、台湾民主国樹立。

 アジアで最初に「民主制」を標榜した共和国は、どこか考えたことがあるだろうか? その実態はともあれ、110年前のこの日に建国された、この台湾民主国である。日清戦争の講和条約による台湾の日本の領有を阻止するために樹立された。
続きを読む

 1871年5月24日、トーロー要塞。

 憲兵と囚人は小舟に向って出帆した。かすかな火が沖に無数に光って見えた。潮は引いていた。2時間ほど走って小舟は波のなかから突き出ている黒い大きな影の下に着いた。トーロー城である。続きを読む

 第一次大戦が始まった後、1915年2月に、ローザはフランクフルト・アム・マインにおいて兵士虐待に対する抗議演説を行った。そしてその罪を問われて、翌1916年2月までベルリンのバルニム街にあった女性刑務所に収容され、その後さらに2年と4ヶ月、ベルリン、ウロンケ、そしてブレスラウと、たらい回しの「保護観察」が続いていた。ソニューシャ(ゾフィーの愛称)は、ローザがかくも長い間監禁されていることに対してたいへん腹を立てて、こう手紙に書いた。続きを読む

                       ■ウロンケ、1917年5月23日

 「わたしからのお便りを出したとき、すでに十四日にお出しになったあなたからの最近のお便りがついていました。あなたとまたご一緒になれたという気がして、わたしはとてもうれしうございます。今日は聖霊降誕祭、どうか良き日をお迎えになれますように!」

 きょうは、ローザ・ルクセンブルク(1870−1919)の獄中書簡より。ローザの生まれ故郷だったポーランド以来の幼友達であり、同志カール・リープクネヒトの妻となったゾフィーに宛てたもの。
続きを読む

 1775年5月22日、ワットが蒸気機関の特許を取得する。

 さて、たまには『資本論』でも読んでみよう。古本屋なら全巻そろって1500円から3000円くらいである。古本屋さんも不良在庫がなくなって喜ばれるであろう。また電子版でも読むことができる。
続きを読む

 1871年5月21日、ヴェルサイユ軍がサン・クルー門からパリ市内に突入する。血の一週間が始まる。パリ・コミューンの最後。

 「労働し、考え、たたかい、血を流しつつあるパリは、−−新社会を生み出すことに熱中するあまり、食人鬼が門前にいることさえ忘れて−−その歴史的創意の熱情に輝いていた!」(カール・マルクス『フランスにおける内乱』)続きを読む

 1887年5月20日、レーニンの兄、アレクサンドル・ウリャーノフ処刑。

 ウリヤーノフ夫妻は、ヨーロッパの芸術、哲学、科学に通じた教養人だった。近代的で西欧的なロシア社会の実現は、ロシア帝国のもとでなされると考えた「愛国者」でもあった。このことには、ウリヤーノフ家……両親ともに純血のロシア人の血統でなかったという説もある……が、世襲貴族の家族としては新参者だったことが影響している。

 この慎み深い穏健派の両親から、なぜアレクサンドルとヴラジーミル(レーニンの幼名)、世界史に名を残す二人の革命家が生まれたのだろうか。続きを読む

 1890年5月19日、ホ・チ・ミン誕生。

 ホ・チ・ミンらがベトナム独立同盟(ベトミン)を結成したのも、51歳の誕生日を迎えた、1941年のこの日のことだった(誕生日には諸説ある)。 1911年にコックの見習いとしてヴェトナムを出国してから、実に30年ぶりの帰国だった。
続きを読む

 1980年5月18日、光州蜂起。

 朴大統領暗殺事件後、韓国では民主化の気運が活発に胎動していた。5月17日,全斗煥ら軍部強硬派は、金大中はじめとした反体制派や旧政治家を一斉逮捕して、実権をにぎり、「ソウルの春」に終止符を打つ。

 そして、5月18日、これに抗議する光州の学生デモに、特戦団を投入して暴圧を加えた。

 学生・市民は郷土防衛軍の武器を奪取して、バリケードを築いて反撃する。
続きを読む

======
 白が黒になったとき、「あいかわらず基本的には同じだ」という人がいる。かと思えば、別の人は、色がちょっと暗くなっただけで、「すっかりかわってしまった」という。(ヴィトゲンシュタイン)
======

 1927年5月17日、トロツキーはクルプスカヤに手紙を書く。
続きを読む

 1966年5月16日、中国で文化大革命が始まる。

 中共中央委が各級機関に対して、彭真らの「2月提綱」批判と中央文化革命小組設置の決定を通達する(5・16通知)。

 文化大革命を特徴づけるのは、紅衛兵の青年たちの活躍だろう。だから文化大革命の展開は、紅衛兵の項にゆずるとして、今回は、毛沢東が文化大革命に到るプロセスをおさらいしてみたい。続きを読む

 1972年5月15日、沖縄本土復帰。

 「米軍再編行方混沌」ときょうの沖縄タイムスは伝えている。

 「沖縄県は15日、本土復帰して33年を迎えた。在日米軍専用施設の約75%が集中する実態は変わらず、戦後60年を迎える今なお、基地から派生する事件・事故も絶えない。県は年内にも結論が出る米軍再編で負担軽減に期待するが、再編の行方は混沌としている。一方、復帰後、社会資本の整備は着々と進んだものの、県民所得は全国最下位、失業率は全国2倍で推移、財政依存度も高く、「自立的発展」に向けた模索が続いている。」

 日本政府とアメリカ政府が結んだ「沖縄返還協定」は、1972年5月15日午前0時をもって発効した。
続きを読む

 きょうは、オーウェン(1771−1858)の誕生日である。

 ロバート・オーウェンは、イギリス産業革命のなかに活躍した、先駆的な社会主義者である。高校の世界史の教科書では、こんな風に紹介されている。

 「1800年に紡績工場を経営して成功、労働者の生活改善に努力した。1825年にはアメリカでニューハーモニー村(理想的共同社会)を建設したが失敗した。工場法の制定や、労働組合・協同組合の育成にも努力した。」
                      (桐原書店『新世界史A』)

 オーウェンは、1771年、ウェールズのニュータウンという町に生まれた。ヘーゲルと、ベートーヴェンはこの前年、1870年の生まれで、ほぼ同年代だ。
続きを読む

 1588年5月13日、バリケードの日。

 フランス第8次宗教戦争における歴史の一幕。パリの旧教徒市民と、ギーズ公の旧教同盟貴族が蜂起したのだ。旧教徒は夕方にはパリを制圧して、国王アンリ3世はシャルトルに逃れる。

 バリケードの歴史はかくも古い。パリの歴史は革命の歴史であり、また革命はバリケードの歴史である。

 不屈の革命家ブランキは、その主著『武装蜂起教範』バリケードについて図解入りで詳細に論じている。このブランキ式バリケードは、防禦壁・内壁・斜堤の 3層構造から成り立っている。ブランキは、このバリケードの構築にあたり、どれだけの石が必要になるか、事細かに計算している……計算違いもあるのだが。防禦壁・内壁は高さ3メートル、厚さ1メートル。敵の侵入をはばむ斜堤は、45度の傾斜で長さ4メートル。パリの公道を舗装する敷石は25センチ角である。道路の幅が12メートルとした場合、バリケード全体の容積は合計144立方メートル。したがって、敷石は全体では9186個、公道から長さ48メートルにわたって敷石をはぐことが必要になる。
続きを読む

 1946年のきょうは、日曜日だった。世田谷区では、人々の怒りが頂点に達していた。主食の配給が12日間も遅れていたのだ。主婦や労組の活動家数百人がつめかけた「米よこせ区民大会」が開かれていた。

 当時は、人々の間で、食べ物のことが話題にならない日はなかった。成人一人が必要とするカロリーは、政府基準で2200キロカロリーとされていた。しかし政府の配給は、1946年半ばから47年の半ばにかけて、その三分の一から四分の一を満たすものでしかなかったのである。闇市を利用しない人はゼロに等しく、1948年になっても、「今の日本で違法行為をやっていない人間は、刑務所に服役中の人間だけだ」といわれたほどである。飢餓と欠乏が、民衆の草の根の政治参加をうながしたのだ。

 この世田谷区民の集会には、思いもかけずビッグな人物が姿を現した。日本共産党の野坂参三である。

 野坂参三が中国での活動を終えて帰国したのは、この年、1946年1月半ばのことだ。博多から東京に向う列車のなかで、後に有名になる「愛される共産党」という声明を発表する。野坂が共産党本部に到着したときには、和服やドレスで着飾った若い女性たちが多数つめかけ、さながらスターを迎えるような大騒ぎだった。「ステキだったわ!」「みんな赤い旗を振っていたのよ!」と女性たちは大感激だったそうである。
続きを読む

 1974年5月11日、足尾鉱毒事件が80年ぶりに決着。

 古河鉱業が被害者971人に補償金15億5000万円を支払う調停案に双方が受諾した。

 足尾銅山はこの前年、1973年に閉山した。そう、この時点までは操業していたのだ。このことは、意外に知られていない。

 1610年(慶長15年)に発見された足尾銅山の歴史は古い。江戸時代の日本は、世界最大の銅産国だった。住友財閥がその礎を築いたのも、「南蛮吹」といわれた99%の純度を誇った当時最先端の銅精錬技術である。元禄年間(1688〜1704)の日本の産銅量は世界最大の年産6000トンだったが、住友銅吹所は実にその3分の1を生産していた。足尾銅山から採掘された銅も、住友銅吹所をへて、オランダや中国に輸出されていたのだ。
続きを読む

 1857年5月10日、インドの大反乱。

 世界史の授業では、「セポイの反乱」と教わった。しかし、インド・パキスタンでは、「1857年の大反乱」であり、「第1次インド独立戦争」として位置づけられているそうである。おぼえておこう。

 反乱に火をつけたのは、イギリス東インド会社に傭われていたインド人兵士(シパーヒー、これが日本ではセポイと訛った)である。しかしこの反乱は、兵士たちばかりではない。ムガール皇帝、旧地方の権力者をはじめ、大地主・農民・都市部の宗教的指導者などをも含めた、インド全土を巻き込んだ内乱だった。
 
 1757年の初採用以来、東インド会社は、実に兵力の5分の4を彼らインド人兵士に頼るにいたっていた。大英帝国が「文明」と「キリスト教」と「労働の尊厳」を教えた「奉仕」の返礼として、大英帝国のために戦わしめよというのが、当時のイギリス人一般の感情だったのだ。(J.A.Hobson, IMPERIALISM, http://www.fordham.edu/halsall/mod/1902hobson.html)

 しかしこれだけバランスが崩れると、いつ矛盾が爆発してもおかしくなかった。続きを読む

 岩波のデジタル歴史年表より、気になる項目を抜粋してみる。

 ■1906年5月9日、北一輝(1883〜1937)が「国体論及び純正社会主義」を自費出版する。

 ただし、北のデビュー作は発売5日にして発禁処分となる。

 明治憲法で確立された天皇制国家の持つ矛盾性と危険を鋭く指摘し批判したが故である。その批判があまりにも正当なものだったために、以後、危険人物とされたのだ。北の指摘した矛盾。

 「天皇が現人神として無謬の神として国民道徳の最高規範として君臨することと同時に天皇は元首として過ちと失敗を繰り返さざるを得ない政治権力の最高責任者に位するものと定めた明治憲法の二元性」
続きを読む

 1886年5月8日、コカ・コーラ発売開始。

 製造販売を開始したのはジョージア州アトランタの薬剤師ジョン・S・ペンバートンだった。商標のCoca-Colaは共同経営者 F・ロビンソンが考案したものである。
 最初にあったのは、コカインの原料であるコカの葉のエキスと、ワインを混合してフレンチ・オブ・コカという飲料だった。これは病気になら何にでもきく万能薬として売られていた。これにアフリカの先住民が興奮剤・強壮剤として嗜好していたコラの実のエキスを加えたものが、現在のコカ・コーラの原型になっている。

 日本に最初にコカコーラが入ってきたのは、大正年間のようである。高村光太郎の初期作品『道程』には、「コカコオラ、THANK YOU VERY MUCH/銀座ニ丁目三丁目それから尾張町」(「狂者の死」)というフレーズが登場するが、日本人の味覚にはあわず、ほとんど広まらずに終わった。
続きを読む

 5月7日は、コナモンの日。

 タコヤキスト・熊谷真菜氏の主宰する日本コナモン協会が2003年に制定した。「5・7」と「コナ」の語呂合せ。
 たこ焼き・お好み焼き・うどん・やきそば、粉を使った食品を、関西弁では「コナモン」という。今日も各地でさまざまなイベントが行われている。

▽日本全国コナモンまつり2005
http://konamon.com/pr/2005konamon_matsuri/20050507event.html

 たまには社会科ばかりでなく理科にも挑戦してみよう。以下、粉体工学の権威で、鳴き砂保護でも知られる三輪茂雄博士のサイトによる、「革命的コナモン学入門」である。どのへんが「革命的」かは最後まで読むように。

 気体・液体とならんで「粉体」という物質の状態が大切だと指摘したのは、物理学者の寺田寅彦である。では、液体と粉体はどのようにちがうのだろう? 実験で確かめてみよう。続きを読む

 1941年5月6日、スターリンがソ連首相に就任。

 最近、つぎのようなニュースが報じられた。ご記憶のかたもいらっしゃるだろう。

 ■58%がスターリン評価 戦勝式典前に露世論調査

 【モスクワ1日共同】インタファクス通信によると、旧ソ連の独裁者スターリンが第二次世界大戦に果たした役割を評価するロシア国民が58%に上ることが 1日公表された世論調査で分かった。対ドイツ戦勝60周年記念式典を9日に控え、ロシアでは大粛清を行ったスターリンが「戦争の指揮者」として“復権”する傾向にあり、懸念する声も出そうだ。
                (共同通信  5月1日20時57分更新)


続きを読む

 5月5日は子どもの日。

 マルクス主義の祖マルクスと、実存主義の祖キルケゴールが、同じ誕生日だというのは、偶然にすぎないとはいえ、おもしろい。マルクス主義も実存主義も、ヘーゲル哲学の生み落とした双生児だった。キルケゴールは1813年デンマークの生まれ、1818年生まれのマルクスよりは五歳年長。ほぼ同時代人である。

 「リルケやカフカを喜び迎える人たちが、なぜこの二人を強く動かしたキルケゴールを迎えようとしないのか、私にはふしぎではならないのである」(桝田啓三郎「キルケゴールの生涯と著作活動」)

 私もキルケゴールはほとんど読んだことがない。私の周囲でも、ニーチェを読むものはいたが、キルケゴールは無視されていたに等しい。どんな大思想も、どんな美しい理念も、ヘーゲルの考えたように「人倫」「宗教」「国家」という制度によっては人間の魂を救うことができないのだ。たしかにその通りなのだが、「そんなものはうそだ」といってしまえば、救援連絡センターに支援をお願いできなくなってしまうだろう。
続きを読む

 5月3日は、憲法記念日。

 1947年のこの日、日本国憲法が施行したのを記念して制定された。なお、公布日の1946年11月3日は、「文化の日」となっている。

 現在、第9条の戦争放棄条項を中心に、改憲論がかつてない高まりを示している。

 きょう(5月3日)の朝日新聞Web版の世論調査を見てみよう。

 「自衛隊の存在を明記」(58%)と「普通の軍隊にする」(12%)を合わせても、7割の人が憲法の改正を求めている。

 しかし正面から9条改正の賛否を聞くと、「反対」(51%)が「賛成」(36%)を上回っている。しかし「自衛隊への国民の支持は広がり」ながらも、「9条を堅持したいという願いの強さがにじむ」と感傷的に護憲の論調に結びつけるのが、まことに朝日新聞らしい。
続きを読む

 1956年5月2日、毛沢東が「百花斉放・百家争鳴」を提起する。

 毛沢東によって提唱された芸術言論自由化運動。学説や芸術作品を自由に発表したり論争させることで、学術・芸術文化の活性化をはかり、同時に共産党と非党員の関係修復をめざすものだとされた。文学や芸術については「百花斉放」、学術については「百家争鳴」という。

 5月2日の最高国務会議の席上、毛沢東はつぎのように語っている。

 「春がきたではないか。百種類の花が咲くようにしてやれ。五、六種にかぎって咲かせるのも、五、六種にかぎって咲かせないのも、よくない。百花斉放であるべきだ。
 百家争鳴は諸子百家、春秋戦国時代、二千年前に、たくさんの学説があって自由に論争したことをいう。いま、これが必要だ。憲法の範囲内で、正しかろうが、まちがっていようが、いろんな学説を発表させる。干渉しない」続きを読む

↑このページのトップヘ