日本共産党・民青同盟悪魔の辞典+

日本共産党や民青同盟、またやりよった……ぼやきのブログ

カテゴリ: 革命とは何だろう?

【日本共産党の陥った罠−5】
 日本共産党が大嫌いな大企業においては今、各課題について各分野の専門家が結集し、ある事業のために「チーム」を結成して仕事をしています。ここでは部門を超えた協働が求められます。様々な組織の持つ有効なシステムから革命組織は学び、自らの組織論としてきました。どうして今の日本共産党にそれが出来ないのでしょうか。答えを書いてしまうと「それは党幹部の権威を傷つけるから」ということになりますが、そんな党ならばこれからの時代は生命力を失うことでしょう。

 ならば答えは一つしかありません。彼ら自身が現代企業を超える組織論を構築し、実践するか、彼らの言う「民主集中制=幹部の権威のための組織論」を放棄し、社会の持つ多様性に対応した組織論に自らを変えるか。結局のところ、上意下達の組織論に過ぎない民主集中制から、多様なセクションから、専門性を持った洗練された意見が、可能な限りダイレクトに幹部に突き刺さる仕組みに変わるべきなのです。実際、大企業はそのように変わり、中間管理職をすっ飛ばして経営幹部に情報が上がる場合もあるのです。

 但し、意見のことはともかく、行動については上部に従わなくては、組織の体をなさないと小生は考えます。意見については今と逆方向をとても強めなければならないのですが、同時に、指示・命令系統は維持されなくてはなりません。今までの民主集中制に対する批判の多くは、指示・命令ではなく、意見(それは可能性のことである)に関することだと小生は思います。

 日本共産党は、革命政党であり、非連続的な、カタストロフとも言える事態に対応した組織論を長く保ってきました。その組織論は幹部の権威や利権を維持することにのみ貢献するようになり、時代の変化に対応できていません。大企業は、そういう軍隊的な組織論を捨てて、新たな組織論を構築しています。企業内部にある様々な知恵、知識を吸い上げ、組合せ、そして機能させる。そういうことをどうして日本共産党出来ないのでしょうか。高い専門性が要求される世の中、組織横断的なチームをどうして作らないのでしょうか。チームに何らかの意味で代表権=権力が付与されるとでも言うのでしょうか。幹部は自らに自信がないから、「分派」というレッテルを利用しているようにしか外部には見えませんね。

 結局のところ、日本共産党は出発点でソ連の都合(指導)のために現実に立脚する論理や組織論を作れず、数多くの失敗を重ね、そして一九六〇年前後の自主独立路線を獲得した時も、本質的に組織論は変わりませんでした。民主集中制は幹部独裁のシステムとして生き残り、形骸化した日本共産党は有能な人材の多様な考えを吸い上げ、咀嚼することが出来なくなり、大衆への影響力を失っていきました。小生がここまで書いた、日本共産党の問題点は、かなり昔から党内外から言われていることですが、彼らは変えよう、変わろうとしているようには見えません。多分、もう駄目でしょう。それでも、上から下へ流れる命令系統に、逆回転、あるいは横断する情報流通の力が加われば、凄く魅力的な党になり得るとは思います。
(続)

【我々の政治的課題−1】
 「学ぶ気があれば、学ぶであろう」と、日本共産党にはレーニンの有名な言葉を贈るとして、でも余り期待できそうにないことも書いておくとして、日本共産党について言及することはおしまいとします。左翼議会主義政党である社民党は今や、良い意味でも悪い意味でも大衆追従政党になっていて、「クラゲ骨なし」としか思えず、取り上げる価値があるようには思えません。

 このような状況で、特段政党政治に絶望している我々は、何が出来るのでしょうか。世界の大衆運動などを参考に考えていこうと思います。先に出てきたことの繰り返しがいくつかありますが、お許しください。

 まず、ラカンドンの密林のサパティスタ。これを日本流に翻訳しますと、地域での経済循環、地方自治への参加ということになると思います。こういう取組みは、住民運動という形で発展しているというふうに考えています。各種ボランティア活動もそういうものでしょう。但し、サパティスタが国家権力と対峙しているような形での対峙は、日本では特段要らないと思います。行政、国家に住民の運動を支援させるためには、NPO化などの方法があります。野球バカという小生の属性的には、野球の独立リーグチームのいくつかがNPOになっていることに関心があります。例えば、兵庫ブルーサンダーズというチームは、NPO化して、行政や地域の企業などを巻き込んだ活動を行なっていますし、そこにはボランティアが参加しています。スポーツというのはこういう動きのきっかけとして面白いですね。Jリーグの百年構想にも、同様の動きを感じます。(愛媛FCくらいしか、具体的には分かりませんが。)

 次に、オキュパイ運動。これは先進諸国で闘われていますね。ここで見るべきは、民主的討議のあり方だと思います。日本における運動の集会の殆どは、壇上に「エライ人」がいて、その中の何人かが「大衆」に話をし、決議をし、そしてデモ・・・という形です。大衆側から壇上に何かが言われるとすれば、それは野次という形にならざるを得ません。そして、共産党系だけの集会で、野次を飛ばせば、暴力的恫喝が加えられます。こういう形の「集会」のどこに、民主主義があるというのでしょうか? オキュパイ運動はそうではありません。様々な課題について、その道の専門家を交えて、大衆が討議をします。そして、なすべき方針が大衆と専門家によって出されます。勿論、今のままでは行動に反映出来る道筋は不透明であります。だが、そこに議員や官僚がいれば、どうなるでしょう?
(続)

【我々の政治的課題−2】
 オキュパイ運動に関する理論家として、アントニオ・ネグリが有名です。彼は、オキュパイ運動を既存のシステムの「外部」として措定し、彼らがそのまま、選挙戦などに参加することに反対しています。革命家であり、マルクス=レーニン主義の復権を目論む野心家であるネグリの立場として、その考えは分からないでもありません。だが、歴史を見れば分かるように、革命とは前時代との断絶のことであり、その現象はカタストロフであり、血まみれの出来事を意味します。敢えてそれを志向する大衆はどれだけいるのでしょうか? これは、第一次世界大戦のドイツの社会主義者の問いでもあります。一言で言うと、ネグリは(国家)権力の問題から逃げています。

 我々日本人は、ネグリに義理立てする必要は全くありません。日本流オキュパイ運動の中に、議員や官僚が入り込み、抱き込んでもいいじゃないですか。現に、ここのオフ会には、国会議員がいるじゃないですか。ここの場合はオフ会ですが、政治的討議をする場を、あちこちに設定し、議員、専門家、そして関心のある大衆——「学ぶ気があれば、学ぶであろう」という、レーニンの言葉を理解した筋金入りの素人——が集まり、討議する。そういう場を作ること。これが、我々の政治的課題だと小生は考えています。

 そういう場は、ロフトハウス、大阪恵美須町の討論バー、あるいは宗教絡みならVOWS Bar。うん、酒絡みだらけですね。いやいやいや、政策演説会や説明会をちょっと変えるだけで可能とも思えますね。政党の勉強会でも、そういうことが可能かも知れませんね。その時、政治家側が意識しなくてはならないことは、徹底的な双方向性と、素人の意見と、専門家の知識の尊重という態度ですね。

 我々の政治的課題を言い換えますと、それは「民主主義を革命すること」です。国家権力の構造を暴力的に変えることが、本来の意味での革命ですが、この革命は、もっと広く、深い社会革命です。民主主義は議会制民主主義に切り縮められ、大衆に疎外感を与え、選挙で多数派を選ぶという矮小化されたものに成り果てました。これでは大衆が政治的無関心=無力感に捕らわれるのは当たり前です。小生もそうですから。それを乗り越えるには、政治を身近に感じ、表出出来る仕組み作りです。

 民主主義が、大衆の欲望を拾い切れなくなり、大衆を疎外し、抑圧し出すことがあからさまになるとき、要は、社会の伸びに追いつけなくなったとき、革命、すなわち革命的暴力は現実の問題として突き出されることでしょう。それに対応することの出来る何かがなければ、我々は各種の反革命の地獄に突き落とされることでしょう。民主主義への絶望と共に。革命と民主主義は対立概念ではなく、光と影の関係にあると小生は考えています。一言で言うと、「党」というか、「組織」は民主主義のため、あるいは革命のための力の集約点として必要だと考えています。あらかじめ革命を否定するようなものは、革命的情勢において、確実に反革命に転化することでしょう。悪名高い社民要撃論も、見方によれば正当な理論でもあるのです。ローザを殺したのは社民でした。
(続)

【我々の政治的課題−3】
 ここの論考の焦点は、共産主義運動における革命でした。かつての共産主義運動は、大衆の置かれた状況を、党が考え、集約し、そうしたものを党幹部が命令するというものでした。そこには党員の横の繋がりはなく、彼らの持つ専門性は著しく抑圧されていました。大衆とともにあり、専門性が尊重されるならば、共産党は横の繋がりという資源を使うしかないでしょう。それが出来ないならば、専門性を持つ党員に見限られることでしょう。また、専門性を持つ大衆の信認を得るには、その専門性に学び、尊重する姿勢が大事でしょう。共産党もまた、党の革命をしなくては生き残ることは出来ないでしょう。民主集中制の逆ベクトルの活用を。それでこそ、民主集中制が生きるということです。革命政党は、革命というカタストロフを避けながら、革命の目的を実現するというのが、現代の課題であると小生は考えています。「外部」を「内部」に包摂していくこと。これを「強力(強制力=暴力)」でもって、実現していくこと。それは、恐らくリベラルや社民主義では不可能です。可能なのは、革命について真剣に考え続ける共産主義者だけでしょう。革命と改良(民主主義)の止揚。共産党の歴史的課題は、おそらくは共産党が考えているよりも重いものです。なお、旧いものが、包摂を否定し、あくまでも共産主義者を排除し、殺そうとするならば、無慈悲な暴力革命を否定するものでは決してありません。大衆がそちら側に、それこそ命を賭するならば、ですが。マルクスがパリ・コミューンの大衆を、レーニンが7月蜂起の大衆を支持したように、小生もまた、革命的精神が問われることでしょう。

 ・・・・・数か月間、ありがとうございました。結論は、テリー伊藤さんの名著、『お笑い革命日本共産党』と同じとなりました。すなわち、世界を革命する前に、日本共産党は自らを革命せよ、と。ご意見を見て、書き続けることがあるかもしれませんが、今しばらくさようなら。

(了) 

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