日本共産党・民青同盟悪魔の辞典+

日本共産党や民青同盟、またやりよった……ぼやきのブログ

カテゴリ: 革命とは何だろう?

ということで、TAMO2師匠から申し出があり、新連載を開始します。第一回と二回は同時掲載!
指導という名の欲望
氷川渉
新々社
2013-07-30


【はじめに】

 

 こんにちは。常連のTAMO2です。

 

 このブログは元々、日本共産党の問題点を掘り下げるだけではなく、日本共産党がダメな場合の革命運動の再興に寄与する記事をアップしていました。その一番の Categories が「毎日が革命記念日」でした。

 

 ここ何年か、日本共産党や党員の動きを論評する記事が殆どで、中々昔みたいな理論的なものを掘り下げる機会もなくなり、そのためかコメントの敷居が低くなりすぎて、日本語読解能力に悖るとしか思えない低レベルに過ぎることを人によっては書き込まれているようです。

 

 小生はもともと、知性においてはシバキ主義者ですし、また、切に革命運動の再興を願っていますので——それは決して従来の共産主義とは限りません——、皆様と共に自分の知性を高め、革命運動に資する記事をおいおいアップしていけたらなあ、と思います。そのためには、まずは「革命」そのもののイデオロギーに切り込んでいきたいと思います。皆様のコメントを見ながら、次の文章を書いていきます。「毎日が革命記念日」の筆者ほどの力量がないので、あっちに流れ、こっちに流れ、になるのは分かっていますが、よろしくお願いいたします。共に学び、考えましょう。

 

 なお、馬鹿なコメントについては、一刀両断することもあると思いますが、ご容赦願います。

 

 

【辞書によると?−1】

 

 革命とは何だろう? 色々なイメージがあると思います。まずは辞書を見てみましょう。

http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/39228/m0u/%E9%9D%A9%E5%91%BD/ より。

 

 1.被支配階級が時の支配階級を倒して政治権力を握り、政治・経済・社会体制を根本的に変革すること。フランス革命・ロシア革命など。

 

 2.物事が急激に発展・変革すること。「産業—」「流通—」

 

 

 1.はマルクス主義で馴染みが深いものですね。ただ、ここには混同、ないしは混乱があるように思います。政治権力を握り、政治・経済・社会体制を根本的に変革するというイメージは、まさに革命に相応しいものだと思います。しかし、以下の共産党宣言の文章を取り上げることは意味のないことではないと小生は思います。

 

(以下引用)

 ところで、われわれがすでに見たように、ブルジョアジーの成長する土台となった生産手段と交通手段とは、封建社会のなかでつくりだされたものである。この生産手段と交通手段との発展のある段階で、封建社会が生産し交換をおこなっていた関係、農業と工業との封建的組織、一言でいえば、封建的所有関係は、すでに発展した生産力にもはや適合しなくなった。それらは生産を促進しないで、かえってこれをさまたげた。それらはすべて桎梏となった。それらは爆破されなければならなかった。そして爆破された。

(引用終わり)

 

 ここでは封建社会が破壊される過程について書かれています。経済を支えるものとして、生産手段、交通手段が挙げられ——マルクス主義では下部構造と言いますよね——、その基礎の上に封建的所有関係が挙げられていると思います。さらに、その所有関係を暴力でもって担保するのが、政治体制というわけです。所有関係と分かちがたく結びついているのが政治体制であり、これらをざくっと上部構造であると小生は考えます。

 

 すると、共産党宣言に描かれた革命理論は、下部構造の発展により上部構造が適合的でなくなり、爆破されるということになります。すなわち、下部構造の発展が先、あるいは主で、上部構造の変革は従であることになります。すると、1.の説明は極めておかしなことになります。(続)

  

【辞書によると?−2】

 1.の説明の何がおかしいかというと、『共産党宣言』では時系列的に下部構造の発展が前にあり、上部構造の変革は後になります。一方、1.の説明は、政治権力を握ること、すなわち上部構造を変えることが先になり、その後下部構造を含めた一切合財を変えることになります。前後が逆ですね。

 

 そういう次第で、この二つの説明は、排中律のように、お互いに相容れないように見えます。この矛盾していることをもう少し細かく見たいと思います。まず、封建社会の桎梏がどのように具体的に爆破されたかを見ましょう。思い浮かべやすいのは、フランス革命でしょうか。この革命は、非常に具体的に未来の設計図があったわけではありません。とはいえ、ルイ王朝のシステムが疲弊し、行きづまっていたこと、それに取って代わる気分があったことは確かでしょう。そこで、ルソーらが練り上げたイデオロギーである自由、平等、博愛を導きの糸に、暴動の結果貴族やブルジョアジーが得ることになった権力——こういう書き方をするのは、体を張った闘争を主体的に行なったのは、当時生まれつつあったプロレタリアートであり、決して貴族やブルジョアジーではなかった、勿論、ミラボーのように協力者はいましたが——を行使して、どのように社会を変えていくかが問題となりました。すなわち、フランス革命の一七八九年以降の段階においては、上部構造の変革に着手し、それを利用して下部構造を変革したのでした。

 

 このように、エンゲルスが「下部構造が変わってから上部構造が変わる」と説明した、封建社会から次の時代——資本主義社会とか自由主義社会とか名付けられるもの——に変化するとき、細かく見れば、その極点とでも言うべき時においては、「上部構造が変わってから下部構造が変わる」もののようです。というのは、革命で権力を握った人間集団は往々にして理念先行で上部構造を先に変えるけれども、昔から続いている下部構造は中々変わらないからです。勿論、下部構造が変わってきているから上部構造を爆破する革命を必要としているのですが、理念はさらに先にまで変えることを欲します。勿論、それが適合的かどうかは、試してみなければ分かりません。ここに革命の悲劇があると小生は思います。

 

 一旦まとめますと、時間のスケールの捉え方によって、革命において下部構造が先に変わるように見えることも、上部構造が先に変わるように見えることもあり得るんだと思います。ここで注意して欲しいのは、大きなスケールでは下部構造の変革が先行し、上部構造が桎梏となる極点においては、上部構造の変革が先行する、ということです。

 

 次は2.の説明「物事が急激に発展・変革すること。「産業—」「流通—」」について考えましょう。

 

(続)

【辞書によると?−3】

 産業革命というと、世界史で学ぶのが、ニューコメンが発明し、ワットが改良した蒸気機関を思い出す人が多いですね。近年では、IT革命もその一つでしょうか。流通革命というのは産業革命の一部と小生は思います。産業革命が起こす展開は以下のとおりと考えます。ある革新的な技術――最近では破壊的技術という言い方もしますね――が広まることによって、それまでと比較して、圧倒的に安価かつ大量のサービスや財を提供すること。そして、そのことを通じて社会の在り方を変えてしまうこと。すなわち、「社会の在り方を変えてしまうこと」なので、これは社会革命の一つだと考えていいと思います。上の『共産党宣言』の文章の中では、生産手段と交通手段の発展に当たるでしょうか。社会革命は、漸進的でもあり、急激――場合によっては断絶と言いたい現象もある――でもあります。そしてこの革命は、下部構造の革命です。

 

 それに対して、上部構造の革命は? 『共産党宣言』では、「爆破」という言葉が使われています。過激ですね。封建制度では、例えば西欧では王権神授説に基づいた王制ってのは、権力を維持し続けることそのことが自己目的化していて、自分たち以外が政権に就くことは想定されておらず、それ故に政権交代というものは、武力を伴うものでした。というのは、力づくで古い王制を排除するしか方法がなかったからです。封建制度の打倒という革命も、排除の方法としては、基本的に武装を伴うものでした。勿論、議会を承認して、自分たち以外に国家を代表する者に国王が承認するという変革方法を取った国もあります。例えば、イギリス(連合王国)ですね。それとても、長年に渡る闘争の果てに、武力を背景にしたものでした。上部構造の革命は、暴力を担保にしたものであることは、歴史を観察すれば分かると思います。

 

 イギリスは知恵に富んだ歴史を有する国だと小生は思います。マルクスは、当時資本主義が最も発展していたイギリスで共産主義革命が始まると考えていたと思います。しかし、そうはなりませんでした。さて、マルクスの分析によると、資本主義の発展=生産手段の発展は、少ない労働力でモノを生産することが可能になるから、労働者は時代と共に不要となることを示します。失業者の増大は貧困層を拡大するとされます。彼らは黙っているでしょうか? 団結してコトに当たったことは歴史的事実です。イギリスは世界に先駆けて労働者運動が起こった国です。マルクスは、しかし、連合王国では労働者の意志は政治に反映されず、実力でもって支配層である王室、貴族、資本家を吹っ飛ばすしかないと考えていたようです。そのためには労働者の団結、ひいては武装蜂起でその団結の力を見せつけ、「吹っ飛ばす」と。繰り返しになりますが、歴史はそのようになりませんでした。

(続)

【イギリス、ドイツの社会主義運動−1】

 副題を変えます。

 

 イギリスの労働者は団結しました。結集軸は労働党ですが、その支持母体となったフェビアン協会について簡単に説明します。元々は知識人(インテリ)が、より良い生活を求める団体として発足した団体で、国内の諸問題を扱ううちに、労働問題にも関心を深めていきました。その結果、労働党を生み出すに至ります。但し、フェビアン協会や労働党は、イギリスの歴史から生まれたことに注意する必要があるでしょう。名誉革命以降、大規模な流血の事態を避ける歴史を有する——勿論、カトリックなどの少数派に対する苛烈な弾圧があったことは言うまでもないですが、これは民主主義の持つ恐るべき本質について触れるときに記します——イギリスは、王が権利を制限されるような事態を、王自らが認めていく歴史を有します。結果、今や「君臨すれども統治せず」の伝統が作られ、余程の事態がない限りは議会に対する拒否権を発動しません。逆に言えば、力を見せつければ、相手はその力を尊重する歴史があるとも言えます。このような国で、何もかも爆破し、根本から作り変えるという手間を要する革命が、民衆によって欲せられるでしょうか? フェビアン協会のインテリと、それに支持された労働党、そして労働党を支持する労働者は、革命ではなく、王から権力を奪った議会に承認を与え、自らの権利を擁護するために、王国で地歩を固め、要求を通していきます。

 

 イギリスの労働者は、革命という爆破作業を選ばずに、改良の道を選びました。小生にとって馴染みのある言葉で言えば、イギリスの労働者は体制内化することを選びました。体制内化とは、自分たちが国家の中で、一定の力と地位を体制に認めさせて、その枠内で権力を分与されて、行使することです。そのためには、既得権益を有する側——支配者層と言っていいかも知れません——が、新たな勢力の力を認める知性と、受け入れる理性を獲得していることが必要だと小生は思います。あるいは、新興勢力を排除した時に、どのような恐るべき結果になるかについて洞察する知性も。

 

 勿論、そういう道を選ばなかった労働者は世界中にいます。マルクスの祖国、ドイツを考えましょう。マルクス存命中、ドイツの労働者はマルクスの喧嘩友達とでも言うべきラッサールの強い影響を受けていました。彼は労働者自らが起業し、生産組合を設立し、そのために国家権力を利用すべきで、この動きに国家権力を服するためには、労働者に普通選挙権を与えるべきだと考えました。ラッサールの社会主義は、国家資本主義とも言われますが、先に書いた体制内化を要求するものでもありました。そして実際に、ラッサールは鉄血宰相・ビスマルクとも親交があり、ビスマルクの政治のうちのいくつかは、ラッサールの提案によるものと言われています。それは、労働者の団結権——ストライキや労働組合を認めること——、社会保障制度の実施。そして、普通選挙権(北ドイツ連邦)。イギリスの労働者が同時代には獲得していなかったものを、すでにドイツの労働者は獲得していたとも言えます。

 

 しかし。マルクスの盟友であるエンゲルスがラッサールの不幸な死の後、ドイツの労働者階級に多大な影響を与え始めた時、ドイツの労働者階級は体制内に留まれないであろうと訴えはじめました。

(続)

【イギリス、ドイツの社会主義運動−2】

 というのは、当時のドイツ帝国は労働者の運動に妥協していても、ビスマルクによる社会主義者鎮圧法(1875年制定)により、労働者階級の利益を代表するとされる社会主義者の政治参画を禁止していたことが理由に挙げられます。帝国にとって、労働者は考慮の範囲には入っていても、政治の意思決定においては、外部に留めていたからです。ここで、非常に大事な観点があることを書いておきたいと思います。すなわち、政治参画の内部/外部という問題です。当時のドイツは、皇帝(カイザー)を冠した帝国で、選挙に基づいた議会が生まれ出した頃に相当します。普通選挙と議会があれば、民主主義の態勢は整っているので、民主主義があると言えなくもありません。しかし。E.H.カーによると、民主主義は「共通の前提」を、構成員に要求します。この場合は、選出される人は、社会主義者であってはならないこと、が条件になります。というのは、帝国の法律により、社会主義者は取り締まられることになっていたからです。このようにして、この時代のドイツ帝国は、表向きは社会主義者を排除することで成り立つ民主主義を採用していた、と言えます。民主主義は共通の前提を構成員に要求する、ということは、これに従わない者は構成員になれないことになります。

 

 こうして、帝国議会の外部に社会主義者は留め置かれることになりました。勿論、外部にあっても、議会に対して様々な影響力を行使することは可能です。しかし、直接的に社会主義者や労働者階級の要求を議会に提起し、飲ませることは出来ません。そうなると、直接飲ませられるようにするならば、内部に入り込ませるように社会的強制力――通常は暴力という――にモノを言わせるか、あるいはそのような議会を破壊し、別途、労働者階級や社会主義者のためのシステムを作るしかありません。後者は言うまでもなく革命です。前者も、考えようによりますが、社会的強制力によってコトを成す、ということでは、革命と言えなくもないでしょう。というのは、支配的システム内のルールの外部から、暴力によって物事を進めるわけですから。このように、革命というものは、外部における力――暴力――によって、変革を成し遂げる側面があります。但し、注意して欲しいのは、このような革命は、政治権力を握る過程での革命であり、「政治革命」に関することだ、ということです。むき出しの、あるいは隠然とした社会的強制力――暴力――を担保しなくては、政治革命は不可能であり、そして、それは同じ「革命」という言葉を用いている「社会革命」とは異なる点がある、ということを強調したく思います。

 

 エンゲルスが指導していた時代のドイツの社会主義運動は、このような状況の下にありましたから、当然体制内部の運動になり得ないとエンゲルスが考え、それ故にドイツの社会主義運動、それを支える労働者運動は革命運動であるとエンゲルスが考えたのは当然のことでした。

 

 では、社会主義者鎮圧法のもとでの、ドイツの社会主義運動はどうなったでしょうか。

(続)

【イギリス、ドイツの社会主義運動−3】

 社会主義者鎮圧法は、最初は効果がありました。しかし、団結の力を見せる労働者階級と労働者階級は、徐々に勢力を伸ばしていきました。こんな法律があったら、社会主義者に関わらないようにするであろう多くの日本人と、イデオロギー大好き民族であるドイツ人は違うようです。そんな法律お構いなしに、議会に社会主義者を送り込みます。それも、選挙のたびごとに人数が増えていくという・・・。また、そんな法律で抑えこむよりも、色々と認めたほうがいいと、カイザー以下の支配階層は考えていたとも思います。ビスマルクが死去し、一八九〇年にはカイザーがこの法律を廃止します。(正確には更新せず)

 

 このような状況の時代ですが、同時に革命に関する見解も色々と変わったようです。まず、暴力革命の王道とでも言うべき当時のイメージは、バリケード構築、武装蜂起、暴力による有力者の逮捕、追放、政権獲得です。権力の外部に置かれた民衆は、自らを組織し、武装し、権力を丸ごと暴力で破壊し、追放し、新たな権力を打ち立て、自らが権力の内部になる。そんな感じですね。だが、権力側の武装も充実し、権力の外側の武装を圧倒するようになりました。一九世紀後半も差し迫り、エンゲルスが死去する前、彼は「バリケードによる武装闘争、権力奪取の時代は去った」と言います。かの王道のような形での権力奪取は、権力による鎮圧を招くだけで勝利出来ないであろう、と。将軍とあだ名され、実際に戦闘にも参加した老革命家であり、暴力革命の推進者でもあったエンゲルスは、ドイツをはじめとする西欧での暴力革命を、軍事的観点から否定するようになっていたと思います。

 

 議会を通じた各種闘争の可能性にエンゲルスは論及します。これは、見方を変えれば、社会主義運動や労働者運動=階級闘争の体制内化を認めていることになります。このような動きに関して、それを裏打ちするようなイデオロギーが、ドイツの社会主義労働党者——当時のドイツの社会主義者の党——に現れます。エンゲルスの一番弟子とも言われた、ベルンシュタインによる修正主義です。上のエンゲルスの説を踏まえた理論です。彼の書物『社会主義の諸前提と社会民主主義の任務』を要約すると、「階級の二大分化——マルクスの理論によると、極一部の大金持ちの資本家と、圧倒的多数の貧乏な労働者に階級が分かれるとされた——はついに起きず、議会を通じた変革は現実的となった、革命は今や非現実的な余計なものとなった」と。漸進的な改良で全てが上手くいく、というわけです。それに対して、激怒する人々が現れました。

 

 というのは、確かに労働者の運動は議会を通じて進むことが歴史的に示されたし、その成果を通じて、絶対的な貧困はなくなるか著しく減少し、総体として労働者階級の生活状態は向上した。だけど、貧困問題の根本にある私的所有——特に、生産手段の私的所有——の問題には手つかずだし、そこに手を触れようとすると、資本家は激烈に我々を排除するであることは、明らかではないか、そのもっとも根幹にかかわることをなそうとすれば、暴力(を担保した)革命以外に道がないのではないか、と。この反論も尤もに見えます。社会主義者が体制内化して、「認められた」としても、根幹に触れると無力化される、というわけです。

 

 この論争で、二人の人物が台頭します

(続)

【イギリス、ドイツの社会主義運動−4】

 一人目はカール・カウツキーです。ベルンシュタインの主張について、歴史を振り返って正当性があることを認めつつも、しかし、国家権力に対する外部性が残ることを考慮しました。彼は、エンゲルス亡きあとのドイツ社会主義労働者党のイデオローグとして活躍しました。この緻密な頭脳の持ち主は、ドイツにおいて現実的には革命の可能性がなくなっていっても、あくまでも労働者階級は国家の外部にあるという論理を否定しませんでした。二人目はローザ・ルクセンブルグです。彼女は革命運動だからこそ、労働者階級は能動的に状況を変えようと精力的に動くという観点から、党から革命の二文字を消すことは断じてならない、と考えました。労働者の勢力、能動性、主体性が大事だという観点は、後に触れるであろうレーニンと共有していると思います。ベルンシュタインは「革命の可能性はなくなった」と考えたので右派、カウツキーは「革命の可能性もゼロではない」と考えたので中間派、ローザは「革命こそが生命である」と考えたので左派と言ってもいいでしょう。

 

 さて。『共産党宣言』には「労働者には祖国はない」という言葉があります。この文章はそのまま受け取ってもいいのですが、この宣言が出された当時、労働者は国家の運営から完全にと言っていいほど排除されていたことに注意しますと、こう言い換えることも可能だと思います。「労働者は祖国を獲得すべし」と。すなわち、外部から内部になれ、と。歴史はそのように進んでいるようにも見えますが、まだまだ国家意思の決定の肝心な部分からは労働者は排除されているようにも見えます。どうしてそれが可能なのでしょうか。

 

 ここでもう一つの言葉を『共産党宣言』から紹介しましょう。「ある時代の支配的な思想は、つねにその支配階級の思想にすぎなかった。」このあたりの事情は、マルクス主義から少し離れて、ミシェル・フーコーが詳しく考えているようですが、小生はそんなに詳しくないので、マルクスの言葉に即して考えます。物事の考え方=イデオロギーは、下部構造に即して形作られる上部構造の一つであるとは良く言われます。それは、往々にして、支配階級にとって都合の良いものとして形作られます。社会的な規範は、社会が上手く回る=支配階級にとって上手く回るように出来ます。なぜならば、支配の論理というものは、それに従わない人間に、隠然と、あるいは公然と暴力——社会的強制力——を行使し、そして歴史を通じて支配の論理を構成員に内面化させるからです。こうして内面化されたものを規範と言います。一旦内面化されると、中々疑問を持つことはありません。だが、規範と現実、あるいは理想がぶつかることもあります。それこそが、改良や革命などの改革へのきっかけになります。それはどのような理路で改革に進むことが出来るのかを考えてみましょう。そういうぶつかりは、個々人によって気づかれます。その経験は、対話によって他人と共有され、具体的な対策も思い浮かぶならば、改革のために動くこともあります。しかし。この理路自身も批判の俎上に上げられることもあるでしょう。また、「ぶつかり」自身が、複雑化した社会においては余りにも多数で、簡単には問題として共有化されにくく、また、改革するよりは、今までの規範——惰性というべきかも——のままでよいと考える人のほうが、大抵多数派だと思います。哀しいことですが、人間は基本的に、成功するかどうか分からない改革よりも、惰性を選ぶものだと小生は思います。歴史を見ると、「誰の目にも、極端なまでに」問題が持ち上がらなければ、具体的な改革にまで突き進まないように思えます。

 

 こういう次第ですから、先の先まで見通せる知性をもったインテリは、鋭い感受性でもって現実の規範を撃ち、左派になびきやすく、現実の中で規範——常識と言ったほうがいいかも知れません——で打ち鍛えられた労働者は、右派になびきやすいと言えると思います。少なくとも、一九世紀末から二十世紀初めにかけてのドイツの社会主義労働者党はそのようになりました。

 

 ここで第一次世界大戦が起こります。

(続)

【イギリス、ドイツの社会主義運動−5】

 一九一二年の帝国議会において、ドイツ社会民主党は第一党となっていました。但し、397議席中110議席であり、主導権を握るには至らなかったようです。そうではありましたが、支配的な階級の齎す国家イデオロギーは党員や議員に浸透していました。議員は国家権力を分与されることにより、国家に対する責任感を有するようになります。そのような状況で、マルクスによって「世界反動の砦」であるロシアと戦争状態になります。先ほど、逆説的に「労働者は祖国を持つべし」と書きましたが、社会民主党の、特に労働者上がりの国会議員にとって、ドイツ国家はすでに祖国であったように思います。ドイツ人は、権威主義的であり、統制に服しやすいことを、例えばマックス・ヴェーバーが『社会主義』で描き、警告していますが、社会民主党の多数派はこの統制の力を、「国家を守る(祖国防衛)」ために利用しました。先ほど労働者上がりは右派を形成しやすいことを指摘しましたが、労働者の党は労働者を多数派として国会に送りこんでおり、社民党はそのような党になっていました。戦争を進めるには、戦費が必要です。その調達のために戦時国債が発行されることになりましたが、ドイツ社会民主党は、たった二人を除いて、戦時国債に賛成しました。既に、ドイツの労働者の党は、植民地支配に賛成しているという、左翼の原理原則から言えば犯罪的なことに手を染めていましたが、今度は戦争に賛成したのです。党は戦時国債に賛成するように、議員に要請していたのです。その背景には、労働者大衆の戦争に対する熱狂・支持がありました。

 

 反対した社会民主党の国会議員は、前に挙げたローザ・ルクセンブルグと、カール・リープクネヒトという左派二人だけでした。これは、反党行為です。党を牛耳っていた右派は「党の統一を乱した」と激怒します。リープクネヒトは除名され、戦争時に「兵役拒否を扇動した」との理由で投獄されていたルクセンブルグは獄中から指令・指導を発し、スパルタクス団という党内分派(左翼組織)を作ります。後にこれはドイツ共産党となります。ちなみに、法王・カウツキーは党の統一を確保するために右派と左派の間を取り持とうとしますが挫折、エンゲルスの一番弟子であるベルンシュタインとともに独立社民党を作り、スパルタクス団と一時は行動を共にします。独立社民党とスパルタクス団は水兵の蜂起などを指導し、「労働者・兵士評議会(レーテ)」を成立させてドイツ革命を成立させます。この成果に社民党も乗りますが、ここで重大な裏切り行為が起こります。社民党のトップ、右派のエーベルトはスパルタクスなどの左派を快く思っていませんでした。ドイツ革命により、ドイツは敗戦国となっていましたから。彼は国家主義者や右翼の間で義勇軍を募り、法の秩序の回復という名目で、急進左派であるスパルタクス団の大虐殺を行ないます。それらは、社民党の作った法律により、「合法的に」行われました。この行為に、先ほど名前を出したヴェーバーも賛意を示します。小生が思うに、革命時に旧態依然とした「秩序」に与することは、反革命に与することに他なりません。それ故に、社会学の開祖であるマックス・ヴェーバーに対する左翼の評価は必ずしも良いものではありません。ともあれ、ドイツ革命とその挫折には、学ぶべき教訓が多数あると思います。革命は、正統性などに縛られてとどまるならば反革命により血の海に沈められること、労働者大衆は、革命的情勢にあるからと言って、必ずしも革命側に組するわけではないこと、社会主義は国家主義と馴染みやすい危険があること。繰り返しになりますが、革命とは、暴力という名の鉄の法則に縛られるものであり、暴力の担保なくしては貫徹できないのです。

 

 これらの教訓を、先取りしていたかのような天才が、一八七〇年、ロシアに生まれていました。ウラジーミル・イリーイッチ・ウリヤーノフ、通称レーニンです。

(続)

【ロシアの社会主義運動−1】

 19世紀末のロシアは、ツァーリと呼ばれる皇帝が専制主義で支配する王国でした。皇帝の意図で全てが決まる政治システムと言い換えてもいいでしょう。皇帝が、エカテリーナ二世のように英明であれば問題ありませんが、そうじゃなければ悲惨です。とはいえ、根っからの馬鹿が皇帝になることは稀ですが。ロシアの場合は、フランス革命、統一ドイツの誕生、イギリス議会政治発足という近代化の流れから遅れていました。19世紀中ごろには神に祝福された王権に基づく王国、という古い統治機構が残され、西欧に起こってきた自由主義に触れた、貴族を中心とするインテリは——ナロードニキと言われます——弾圧されていました。それだけなら未だしも、ロシアの圧倒的多数を占める農民は、自分たちの属する共同体(ミール)の外から、皇帝様と神様が守ってくれると信じ、インテリたちの言う自由などを求めていませんでした。正確には、人民のために、自由を広めようとしたインテリたちは、農民たちに嫌われ、排除されたのでした。しかし。自由主義は資本主義の成長期のイデオロギーとも言え、レーニンが生れた頃は遅ればせながらも外資などにより工場が出来、貧乏な農民の中からは職を求めて工場街=都市に流れ込む人が出始めていました。彼らは農民的考えを残しつつも、労働者としての考えも身に着けるようになりました。ロシアにも資本家と労働者が生まれ、自由への要求は高まるとともに、それまで農民の解放を考えていたナロードニキの中には、労働者に注目する一団が現れました。彼らの中で、西欧のマルクス主義に触れ、労働者こそがロシアを変える主体であると信じる一団が生まれました。プレハーノフ、ストルーヴェなどがレーニンに先行する社会主義者として知られますが、ストルーヴェはマルクス主義をロシアのブルジョア的な意味での近代化に利用するというスタンスでしたので、マルクス主義者と言えるのかどうか、疑問があります。

 

 さて。労働者階級が形成されつつあると雖も、多くの農民はツァーリに支持を与え、苛烈な弾圧が可能な状況であり、革命を意図する政治団体は処刑を含めた強い弾圧に晒されていました。自由に憧れるインテリたちは、社会主義者であっても、せめて党の中では自由で、緩い規律であってほしいと願いましたが、レーニンは、そんなことでは弾圧されたらひとたまりもないと考えました。鉄の規律を持った党——党費を納めること、全国政治新聞=機関誌を購読・販売すること、党活動(会議)に参加すること——を要求しました。実は、どれも命がけのことでした。「党の中では自由」というインテリの願いは、西欧マルクス主義の党の中では当たり前のことでしたが、ロシアでは無理筋だったと思います。19世紀末に出来たロシア社会民主労働者党は、レーニンの提案を巡って二つの分派に分かれました。レーニンの規律を是とするボリシェヴィキと、それに反対したマールトフをトップとするメンシェヴィキに。レーニンの党は革命家集団、マールトフの党は労働者大衆やインテリに開かれた集団となりました。では、レーニンの党が革命をやったから、レーニンの党が正しかったと言えるかと言えば、必ずしもそうは言えない、というのが歴史の皮肉なところです。名前は「多数派」を意味するボリシェヴィキですが、これは当時の機関誌「イースクラ」の編集部の多数を占めた——それも決して褒められたものではない権謀術数によって——からそういわれただけで、党派としてはメンシェヴィキのほうが多数のメンバーを擁していました。また、弾圧を喰らっても、レーニンの思惑とは違い、ボリシェヴィキは中々復活しないのに、メンシェヴィキは比較的早く復活し、結果としてメンバーや支持者はメンシェヴィキのほうが多くなりました。

 

 では、メンシェヴィキが正しかったのでしょうか。もし、革命ということがなければ、そうであったかも知れません。しかし、歴史の示すところによれば、やっぱりロシアではレーニンが正しかったようです。

 

 そうです。第一次世界大戦がロシアも飲み込みます。

(続)


 

【ロシアの社会主義運動−2】

 第一次世界大戦でロシアは陸続きの戦場を有し、イギリスとの同盟関係から多大な軍事的負担を負うことになりました。元首であるロマノフ二世は、ロシア人的愚直さを持った人物で、イギリスやフランスのような老獪な政治国家に利用されたようにも思えます。ドイツとの交戦は長引き、ロシアは疲弊しました。

 

 話は少し昔になります。それまで植民地主義者どもの草刈り場であった、アジアにおいて、一つの国家が奴らのルールに従った上で、文明化を果たしつつありました。この国は軍事大国として、西欧も一目置かざるを得なかったロシアと対戦し、勝利しました。言うまでもなく日本のことで、このことは植民地支配に置かれたアジアの諸国の民衆を勇気づけ、ロシアの頽落を示したことでロシアの革命家をも勇気づけました。但し、ロシアの農民と結びついた労働者は、この段階ではツァーリへの信仰心を持っていたと思います。日露戦争のさなかの1905年1月、労働の過酷さや戦争からの離脱を訴えるデモが首都サンクト・ペテルブルグで、ロシア正教会——すなわち、体制側の人間——のガポン神父によって組織されました。六万人のデモに対して、ロマノフ二世は中心街に入れないように指示し、軍隊が動員されました。デモは請願デモと言われる非武装のものでしたが、請願のためには中心街に入るしかありません。ロマノフ二世は好人物でしたが、政治的感性においては、余りにも愚直、いや、率直に言って愚鈍でした。指示を守ろうとする軍隊は、非武装のデモに対して発砲し、千人以上の死者が出ました(血の日曜日事件)。このことは、ツァーリに対する労働者の幻滅を引き起こしました。そんな時代、ロシアの農民たちの負担も形式ばかりの農奴解放——一八六一年——や戦争などによって増えていて、各地で騒乱が続き、都市ではストやデモが引き続き頻発しました。そして、都市でも農民でも、新時代を求めるデモ・スト・暗殺テロなどによる騒乱状態が拡大し、革命的状況となりましたが、この時点では、それらの圧力を束ねる政治勢力が未熟でした。一九〇〇年にナロードニキを束ねた社会革命党を中心とするテロは、一定の成果を挙げましたが、形ばかりの「議会(ドゥーマ)」は基本的に帝政のそれまでの支配者にお墨付きを与えるものでした。レーニンは、そんな議会でも、そこで議席を持つことは、革命の宣伝のためになると主張しました。前に革命は、権力にとっての外部からの攻撃でなされるというお話を書きましたが、その原則に忠実たらんとする者は、権力にとっての内部である議会に参加することを拒否しました。レーニンは、それを批判し、議会を利用できるなら利用するべきと言いました。レーニンは、その意味では原理原則主義者ではありませんでした。

 

 ともあれ。一九〇五年の革命的情勢は党派の未熟さ、特に革命を担うと考えられた資本家の政治勢力であるべき自由主義者の未熟さと、一九〇六年に首相に就いたストルイピンの苛烈な弾圧もあり不発に終わりました。レーニンも逮捕を逃れるために長い長い亡命生活に入ります。なお、「まずは平静を、しかる後に改革を」と考えたストルイピンはレーニンに「健全なる反動」と評価され、この人が首相を続けたらロシアの歴史は自由で民主主義のある良いほうに変わっていたかも知れませんが、ロシアの農民が属していた共同体(ミール)が壊れるのでは、という恐怖心から改革に反対し、凡庸な君主であったロマノフ二世もストルイピンを理解できず、彼の改革は頓挫します。ロマノフはその後、仲間内で政治を行ない、遂には怪僧・ラスプーチンに政治介入を許してしまうことになります。このことは、ロマノフ二世の権威を大いに傷つけ、民心が離れることでした。

 

 そんな第一次世界大戦前の状況があり、大戦で疲弊した労働者・農民・兵士は「もうだめだ」と感じ始めます。そんな一九一七年二月、大衆の中で最も生活状況に敏感な層である主婦が決起します。(続)

【ロシアの社会主義運動−3】

 一九一七年旧暦二月二十三日、「パンをくれ!」と主婦たちが首都ペトログラードで請願的なデモを始めました。そのうちデモに労働者が参加して大きくなり、多分何も考えていないロマノフ二世は鎮圧を指示します。死傷者が出たことで、兵士の中には反乱を起こす部分も出てきました。反乱は拡大し、司令部を襲撃し、軍の命令に従わずに独自武装します。とどのつまりは政治革命は暴力の問題であり、現状では平時に民衆の側が考えられる武装をしても勝ち目のない軍隊を獲得できるかどうかに運命は握られています。レーニンは軍隊のことを「軍服を着た農民と労働者」と呼びました。鎮圧すべき部隊の兵士は脱走し、ついにはロマノフ二世は退位に追い込まれます。なお、政治権力については歴史上類を見ない奇妙なことが起こりました。帝政時代のドゥーマは存続している一方、蜂起した労働者や兵士にメンシェヴィキが呼びかけて作られたソビエト(労農評議会)にも政治権力がありました。ドゥーマは三月二日に臨時政府を作り、ソビエトは「当面の革命はブルジョア革命(資本家のための自由主義革命)である」と考え、支持を与えました。戦争同盟国との関係を損ないたくないこの政府は、戦争の継続を訴えました。国家の本質である暴力装置はソビエトにありましたが、彼らの中枢を占めていた革命家たちは、社会主義者も含め、当面の革命はブルジョア革命であるから、ドゥーマ由来の臨時政府を認めているのです。そして、少数派に過ぎなかったボリシェヴィキの殆ど全員もこの態度に賛成していました。

 

 さて。ロシアの戦線は疲弊していました。愚直なロマノフの無茶振りに従わされたロシアの兵隊は、先の見えない戦争に嫌気がさし、戦線離脱をしているありさまです。彼らは講和と平和を求めていました。亡命先のスイスで情勢を分析し、八方手を尽くして両者の思惑が一致して誕生した封印列車でロシアに帰国したレーニンは、戦争継続も長くは不可能で、脆弱に過ぎる自由主義者の基盤も崩壊することを予見していました。農民は土地を求めて地主の殺戮をしていました。そして同時に、兵士に働き手を取られてしまった農村は、土地も荒れていました。要は疲弊しきって無茶苦茶になったロシアを立て直すには、二重権力状態を解消し、資本家=自由主義者の手から権力を社会主義者の手に移さなくてはならない、一言で言うと更なる革命、社会主義革命が必要であるとレーニンは帰国直後のぺトログラードで訴えました。有名な四月テーゼ——臨時政府打倒、全ての権力をソビエトへ、祖国防衛拒否——ですが、レーニンの支持者でさえも彼が何を言っているのか理解できない有様でした。また、ドイツの列車で帰国したため、スパイめ!という怒号が渦巻きました。「レーニンはドイツのスパイである」というデマは、政治的オボコたちによって今なお繰り返されていますが、そういうことを信じれる人は政治にかかわらないほうがいいと小生は思います。

 

 さて。レーニンはこの革命的情勢にあって、臨時政府に対する「外部」に立つことを訴えました。しかし、メンシェヴィキ、社会革命党、そして残留ボリシェヴィキは臨時政府に支持を与えており、いわば「けっこう内部」とでも言うべき位置にいました。レーニンは粘り強く訴え続けますが、論理だけでは彼らを説得できませんでした。しかし。

(続)

【ロシアの社会主義運動−4】

 1914年には愛国心に燃えていた「軍服を着た農民、労働者」も、戦線の膠着や悲惨な戦場に嫌気を増していきます。1917年の二月革命とそれに続くツァーリの退位は、混乱に輪を掛けます。戦線離脱が相次ぎ、ロシアに帰還する兵士が増え、臨時政府の統制は利きません。「ボリシェヴィキ? 何それ?」という感じだった労働者や兵士でしたが、レーニンの「いわくつきの」四月テーゼに対して懐疑的な立場から、戦争継続を訴える臨時政府やそれに支持を与えるソビエトへの不信感を強める中、徐々に労働者や農民はレーニンの四月テーゼやそれに支持を与え出したボリシェヴィキになびいていきます。「パンと自由と平和!」。労働者と兵士の叫び声は強まっていきました。そして、元々メンシェヴィキの立場にあり、レーニンが鉄の規律を訴えた時、「労働者を地区委員会が代表し、地区委員会を委員長が代行し・・・そして党全体を党首が代行する」と、その組織論を鋭く批判したトロツキーが、メンシェヴィキを捨ててボリシェヴィキに就きました。彼に続き、有能な革命家は徐々にボリシェヴィキを支持するようになりました。しかし、そうは言っても、一九一七年の六月ごろまで、ボリシェヴィキは農民の間では言うまでもなく、労働者の間でも少数派にとどまっていました。

 

 さて、徐々に無能っぷりを露呈する臨時政府でしたが、当初は大衆に期待されていました。ロシアを変えてくれる、と。改革派議員として期待されていたケレンスキーはソビエトを代表して入閣、五月には軍事大臣として腕を振るおうとしました。しかし、ロシア軍は崩壊しつつありました。ケレンスキーは、ナポレオンを目標にしたと言われます。さて、あの大ナポレオンだったのか、甥のナポレオンだったのか。いずれにせよ、あらゆる階層全てを代表しようし、束ねようという彼の野望は実現しませんでした。彼が軍を統制出来ない中、ボリシェヴィキは自前の武装を強めていきました。それは、旧皇帝の支持者や新政府の中でボリシェヴィキを快く思っていない部分が、自前の武装を進めていたことと対をなします。繰り返しになりますが、革命的情勢においては、武力は無視してはならない条件であり、道具です。自前の武装は実はなかったケレンスキーは、ボリシェヴィキをはじめとする武装勢力のバランスを利用しようとしました。だが、このような政治家は足許を見られるのが関の山です。

 

 一九一七年七月、都市の労働者と兵士は事態を好転出来ない臨時政府に業を煮やしていました。奴らを排除し、「全ての権力をソビエトに集中すべきだ!」と。諸説ありますが、小生が落ち着いた考えは「レーニンはそのような集中=武装蜂起は時期尚早だ」とレーニンは考えていた、ということです。しかし、暴発に似た武装蜂起は起きてしまいました。ボリシェヴィキはどうしたでしょうか? 何と、彼らの先頭に立ち、自らを弾除けとすることで、鎮圧側の軍隊から暴発した労働者・兵士の部隊を守りました。これは、弾圧を引き受けることでもあります。体を張り、自らの主張を差し置いても、労働者と兵士を守ったボリシェヴィキは、犠牲を払った代償に、尊敬と信頼を獲得しました。……都市部では。(続)

 

【ロシアの社会主義運動−5】

 臨時政府は戦争継続のため、歴戦の英雄であるコルニーロフを7月に臨時政府軍の最高司令官に任命しました。同時に、ケレンスキーは首相に就きました。コルニーロフは7月の労働者蜂起未遂事件などについて、背後にボリシェヴィキが糸を引いていると考え、また、ロシア軍の敗走の背後にもボリシェヴィキの暗躍があると考えました。そして、ソビエトにおいて力を増すボリシェヴィキがこれ以上強くなったら、ロシアは崩壊すると考えました。実直な英雄であるコルニーロフは、二月革命の時に「ロシアのために」ロマノフ二世を逮捕するなどして革命に加担しましたが、革命左派であるボリシェヴィキの増長はロシアを敗戦に追い込むと考えました。ボリシェヴィキら左翼の排除は、ケレンスキーも願いました。そして九月にクーデターは決行されました。しかし。まず、ケレンスキーは自分も排除されるのではないかと恐れをなし、ケレンスキー指揮下の軍隊の輸送に対して鉄道ストを指示したり、ソビエトに依拠した赤衛軍を作ったり、何とも腰の定まらないことをします。コルニーロフの指揮下にあったコサック軍はこれを見てやる気を失い、コルニーロフは逮捕されます。労働者や兵士はこのクーデター未遂を見て、臨時政府を見限り出します。そしてボリシェヴィキは力を蓄えていきます。7月の蜂起失敗後の危機により、レーニンはフィンランドに逃れていましたが、10月には帰国し、邪魔者と化した臨時政府を物理的に排除することを訴えます。

 

 有名な十月革命の直前について、よく「権力の真空」という言葉で説明されます。正式な政府の代表は臨時政府、だが力を持っているのはソビエトのはずだが、その内部は革命派もいれば自由主義者もいる、社会革命党も左派と右派、ボリシェヴィキとメンシェヴィキ、少数だろうが立憲君主制のカデットや自由主義者。ごった煮でとてもじゃないが意志統一は取れない。誰も本気で政権を握ろうとしているのか疑わしいし、本来自信家のケレンスキーさえも無能力状態。そんな中で、誰が権力を握り運営できるのだろうか、という問いが出た中でレーニンは「いや、ボリシェヴィキは権力を掌握する用意も実力もある」と言い放ちます。この段階では、もう、これまで例えていた「内部」は崩壊しているに等しく、形式と堕していました。後は誰がどのように排除するか、です。合意に基づいた議会的な手段は、9月クーデター未遂の段階で崩壊していました。そして、冬宮襲撃をメルクマールとする、十月革命が起こります。軍は実質崩壊、自由主義者は無力という状態で、力を蓄えたボリシェヴィキがクーデターを決行し、成功させます。この蜂起自身は、「革命」という言葉で想像されるよりもはるかに平和的で流血も少なく、成功しました。エピソードとしては、オペラ歌手のシャリアピンが前夜にオペラを平和に歌っていたことがあります。だが、このクーデターの後に様々な流血の惨事を含む騒動が待っています。

【ロシアの社会主義運動−6】

 十月革命は平和な様相のクーデターでしたが、情勢はむき出しの暴力に支配されていました。戦争を遂行するだけの機械になっていた臨時政府は既に退けなければ、労働者、農民、兵士は無駄死にへの道を突き進むだけでした。そして、憲法制定さえされていない状況では、暴力でもって臨時政府を除去するしかありませんでした。小生は、レーニンのクーデターには法律を超えた意味での合法性というか、正当性を有していたと思います。国家システムの正統性と正当性は別物です。臨時政府は皇帝を追放した時点で正統性を有しましたが、その無力さによって正当性は失っていたと思います。「クーデターだからロシアの十月革命は駄目だった」という考えが一部で流布していますが、それは「正統性」のみをみて、「正当性」を考えていないと小生は思います。しかし、「正統性」の呪縛は同時代においては現在よりも強いものだったと思います。ちなみに、ボリシェヴィキの中でも、指導部メンバーであるカーメネフとジノヴィエフは武装蜂起の計画を外部に暴露するなど、強い反対がありました。それでも彼らを除名などで強く処分することは出来ませんでした。様々なものがギリギリの蜂起でした。「一日遅ければ遅すぎる、一日早ければ早すぎる」とレーニンは書き残しています。「待てば死ぬ」とも。遅ければ革命阻止の勢力が態勢を立て直すし、早ければ軍事的な準備という意味での機は熟していない、と。ちなみに労働者・兵士の多くは蜂起を心待ちにしていました。それでも機会をしっかり見極めなければならないのです。暴力革命において、司令部=党がないのは、不成功を約束することだと小生は思います。

 

 さて。レーニンの蜂起が成功した後、ケレンスキーは逃亡、臨時政府の閣僚は逮捕されました。臨時政府にメンバーを派遣していたメンシェヴィキ、社会革命党(右派)は激怒します。ボリシェヴィキに協力的であった社会革命党(左派)もボリシェヴィキと距離を置きます。結局のところ、ボリシェヴィキは広い意味での革命的党派を結集することは出来ませんでした。そこで、ボリシェヴィキは、自らを中心に、ボリシェヴィキに好意的な社会革命党左派の一部で新政府を作らざるを得ませんでした。一般的に労働者階級は断固とした非妥協的な姿勢を見せるものを好みますが、非妥協性は往々にして周辺に敵を作ります。ボリシェヴィキの革命性は、曖昧なものを敵とし、その曖昧なものに飲み込まれていたメンシェヴィキを敵規定せざるを得なかったんだと小生は思います。そして、革命が悲劇的なものであることを示す、余りにも苛烈で残酷な真実は、カール・シュミットの『政治的なものの概念』が示した友−敵理論を極限で示すことになるでしょう。この理論が示すところは、要は「国家の敵は殺せ」ということです。これのむき出しとなる例が、革命と戦争だと思います。そうならないための安全装置を、人類は生み出してきましたが、その装置が壊れるときはあるのです。

 

 ボリシェヴィキ+少しの社会革命党で組織されたレーニンの政府。レーニンには権力奪取に酔いしれている暇はありませんでした。「パンと平和と土地を!」という民衆の切実な要求に答える必要がありました。平和はドイツとの無条件講和、土地は社会革命党の草案に基づいて農村ソビエトに一任します。パンについてはこの段階では特段問題になりませんでした。しかし、これらの課題は様々な軋轢を生み、そしてロシアを破滅の淵に追い込み、そしてレーニンは危機打開のために多くの人命を落とす選択を突き付けることになります。

(続)

【ロシアの社会主義運動−7】

 まず、戦争に突入して数年、ロシアでは経済が破たん寸前になっていました。とはいえ、最初に取られた手段は、銀行の国有化、企業のシンジケート化、要は後に社会主義化=国有化=計画経済と考えられる方策の一歩を踏み出すに過ぎませんでした。「記帳と統制」という言葉で知られる方策は、当初緩いものでしたが、しかし、そんなことでは破綻しつつある経済状況を好転させることは出来ませんでした。何しろ、工場は麻痺しており、農村に提供できるものがなければ、市場経済が残った中で、どうして農村は都市に食糧を供給するのでしょうか? この悲劇は後でまた触れます。

 

 次に、平和についてドイツとの講和をレーニンは求めますが、ボリシェヴィキ内部にもそれに反対する人々がいました。成功した革命を、ドイツの軍が蹴散らすのではとレーニンの反対者が考えるのも理由のないことではありません。ドイツの力を利用したフランスのティエールに蹴散らされたパリ・コミューンのことを思った革命家もいたと思います。ドイツは脆弱な革命政権の足許を見、結局はソビエト・ロシアにとって不利な講和条件を突き付けますが、情勢が煮詰まり、戦争継続はソビエトにとってあり得ない選択であると判断したレーニンは講和条約を飲みます。多くの領土がドイツのものとなり、多額の賠償金を払う約束をし、そして多くの地域がロシアから独立しました。レーニンがドイツの用意した封印列車で帰国した経緯もあり、レーニンは売国奴であるという憤りは他党派に湧いてきても不思議ではありません。

 

 また、土地の布告は社会革命党(左派)を丸のみしましたが、当の農民は「良きツァー、良き地主がいてこそ!」という意識が強く、革命政府の布告は「自分たちの好きなように、とはふざけている」ようにしか思えませんでした。要はボリシェヴィキ主導のソビエトは得体の知れない存在として農民に立ち現れたのです。

 

 問題はそれだけに留まりません。二月革命のとき、ロシアの近代化のために憲法を制定することが定められ、そのための会議が近い将来開かれることになっていました。会議のためには、議員が必要で、そのための選挙が行われるはずでした。選挙のためには、選挙人名簿が必要でしたが、この名簿が作られたのは十月革命以前のことであり、「ボリシェヴィキ?何それ?」と多くの人、特に農民が思っていた時に作られたものでした。だから、レーニンは名簿の再作成後に選挙を行なうべきだと訴えましたが、地方は「早く選挙をしろ」という声で満ちており、レーニンとしても無視できないほどでした。そして、「名簿通り」の結果が出たら、「ボリシェヴィキは少数派」という「現実」を突き付け、あわよくばレーニンを殺してしまおうという、政治勢力もいました。十月革命で閣僚が逮捕された党派であるカデットなどのことです。きわめて流動的な、革命的情勢では、結局のところ暴力がモノを言います。憲法制定会議は十月革命から間なしの一九一八年一月五日に開かれます。議長の選挙において予想通り右派が圧勝しました。レーニンを亡きものにしようとした連中が、大手を振って権力者の位置に復活したのです。革命的ソビエトが反革命的議会に道を譲ることによって革命の成果が消し飛ぶことを恐れたレーニンは、議場を後にし、宣言文をしたためます。

 

「立憲議会の反革命多数派は、旧来の議会の例をまねるばかりで、議会と労農政府の対立を明らかに目指している。我々は人民の敵が犯しつつある罪を一瞬たりとも分かつことを望まぬが故に、この議会から立ち去るものである」

 

 さて、他の左派も立ち去ろうとするとレーニンは叫びます。「何をするのですか。諸君が宣言文の朗読に立ち会って、一まとめに退場すれば、警備の兵士や水兵がいきり立って、社会革命党とメンシェヴィキを皆殺しにしてしまうことが分からないのですか。」全くの法措定暴力の段階では拳や銃弾がモノを言うようです。その場にいた議員の中には、レーニンによってメンシェヴィキの議員は生命を永らえたと言うものもいました。

 

 こうして権威も力も失った憲法制定会議は、このようにして開かれた翌日の午前四時半に終了しました。このことをもって、レーニンを反民主主義と批判する傾向があります。しかし、レーニンはこれに到る前に、様々な判断を下しました。それが拒否されて、このような事態になりました。また、憲法制定会議が大いに変わった大衆の意識を反映していないのに、民主主義の名でレーニンを批判するのはどうでしょうか。さらに言うと、ケレンスキーらは会議に合わせて反革命武装蜂起をやろうとしていたのです。革命とは、特にロシア革命とはそういう場所なのでした。憲法制定会議のことをもって、レーニンを批判するのは極めて理不尽で不当なことだと小生は思います。

(続)

 

【ロシアの社会主義運動−8】

 憲法制定会議のことは、トロツキーの回想でも非常に軽く扱われる程度のもので、今更これを以てレーニンの非民主性を云々することは、小生にとっては軽蔑の対象に過ぎません。そんな上部構造のことより、もっと恐るべき地獄が迫ってきます。経済破綻です。

 

 社会主義革命、共産主義革命と言えば計画経済へ経済システムを変えるというイメージがあります。合理的で理性的で無駄のない計画経済は、無政府性を伴い、非合理な市場経済よりも優れていると考えられていました。この考え自身がいかに非合理かは、色々と論じられていることですが、ともかくもそういう方向が社会主義・共産主義だと考えられていたのは確かです。但し、私見ですが、革命直後のレーニンは全般的な計画経済に進める条件があるとは考えていなかったと思います。だが、戦争で荒廃したロシア革命直後の状況は、市場経済の条件があったともいえないようです。工場も交通もボロボロで、工業製品は量も質も購買されるに値するものではありませんでした。農民には「市場原理では」農産物を売る理由がありませんでした。新政府の貨幣には信用がなく、機能しませんでした。このままでは都市の労働者は餓死します。とはいえ、先に見たように農村も人手不足などで疲弊していました。レーニンは、そのような状況で急進的な「共産主義的」政策を取らざるを得ませんでした。都市の労働者のために食糧を農村から強奪する「計画」を立て、武力でもって実行することになりました。極端な話「都市の労働者を殺すか、農村の農民を殺すか」という選択で、後者を殺すことを選択したのです。悪名高い食糧調達は次の年の収穫のための種もみさえ強奪するという凄まじさで、供出しようにもそれさえない農民は「みせしめのために」富農として処刑されるありさまでした。戦時共産主義として知られる、内戦期のレーニンの急進的な政策の背景には、このような荒廃がありました。今回は細かくは触れませんが、ソビエト革命政権が行なった外資へのデフォルト宣言、対ドイツ戦争離脱などで英仏は激怒し、特にイギリスは革命への干渉戦争を引き起こすという困難もありました。それにとどまらず、日本などもソビエト圧殺に加担していました。一方、レーニンはこの戦時共産主義を激烈に進めることで共産主義に至ると考えていた節がありました。

 

 さて、農民の味方たらんとしていた社会革命党左派はレーニンの農民殺し政策に激怒し、一部はレーニンの殺害を決意しました。諸説ありますが、筋金入りのテロリストにして革命家として名高いファニー・カプランは農民への苛斂誅求が始まった一九一八年八月にレーニンを狙撃します。レーニンは一命をとりとめますが、この時の傷と、苛斂誅求政策の精神的負担により、五四歳の若さで逝去することになりました。また、この事件により連立政権を支えていた社会革命党左派も弾圧され、実質壊滅します。このようにして、ボリシェヴィキ独裁が起こります。

 

 レーニンの革命は農民殺しを引き起こしただけでなく、ボリシェヴィキ独裁以降、労働者の反発が高まります。「絶対的な権力は絶対的に腐敗する」。ロシア革命の精華とまで謳われた、クロンシュタットの労働者は「ボリシェヴィキのないソビエトを!」と叫び、決起します。この決起は、「命令に背いた将兵はその場で処刑する」という命令が発された軍隊によって鎮圧されます。軍隊にもクロンシュタットへの同情心が高まっていました。

 

 何かここまで書いていたら、どうしてソビエトが維持できたのか不思議なほどです。しかし、結局のところ、ロシアの農民は外国や旧体制を代表する反革命軍に支持を与えませんでした。結局のところ、農民は外国人を信用できず、旧体制の残酷さを知っているので、「それでもなお」ボリシェヴィキのほうを消極的でしょうが支持しました。そして、レーニンは内戦に勝利しつつあった段階で、農民に譲歩しました。ロシアの工業も復活しつつあると見込んだ状況で、市場経済の部分的復活を図りました。いわゆるネップが発動されたのです。

(続)

【ロシアの社会主義運動−9】

 ネップについて、レーニンは明白に共産主義からの後退戦であり、農民との妥協であると認識していました。但し、彼は、商人の持つ調整機能に着目し、「良き商売人たれ」という言葉を残しています。彼は、共産主義に至る――恐らく当時のレーニンは、共産主義社会は計画経済で運営されると考えていた――には、長い長い市場経済の利用が必須だと考えるに至ったと思います。戦時共産主義でもって共産主義に至る条件はなくなった、と。そして、ロシアの穀物は世界市場で売れることに注目し、それで得られた外貨でもって、欧米の機械を輸入して工業を発展させようと目論見ました。レーニンは、世界市場に開かれたソ連をアピールしようとしました。スターリンが著した『レーニン主義の基礎』を読むと、レーニンはビジネスの方法はアメリカ流に合理的に進めようとしていたようです。彼は「浅ましいほどの実際家」でもあったのです。

 

 しかし、ロシアはレーニンの「世界の資本主義に大幅に譲歩した」構想の道に進みませんでした。まず、レーニンは狙撃された傷と心労が元となり、五四歳の若さで早世しました。レーニン存命中に人事権――書記長という形で!――を握ることで党を支配したスターリンは、経済の機微については鈍感でした。レーニンの見込みとはやや異なり、市場経済の中ではまだ十分に回復したとは言えなかった工業の脆弱さは、農民が買いたいと思える工業製品を供給し切れず、また高いものでした。世界市場と比較した時の農産物の低価格、工業製品の高価格は鋏状価格差(シェーレ)と言われ、ソ連の経済バランスをいびつなものにしました。

 

 結局のところ、スターリンは行政的・指令的な手段で解決することを選びました。そしてこれは後にソ連型計画経済=指令経済に帰着しました。それがどのようなものであったかは、様々な文献に譲りたいと思います。ちなみに、小生は、計画経済は「可能だけど経済官僚の意志に全てが帰着するという官僚独裁に陥るので、全面的にはやめたほうがいい」と思います。勿論、民間企業の運営なんかでは、計画経済めいたことが一杯行われているんですけどね。計画同士は緩く市場を介して結びつくくらいがいいんだと思います。

 

 ソ連は市場経済の柔軟性を取り入れようとしましたが、余りにも強固に基礎的な部分に計画経済=指令経済が組み込まれていて、そこに手を加えようとゴルバチョフが経済改革に着手した際(ペレストロイカ)に、崩壊しました。下部構造を崩した結果、上部構造も吹っ飛んだと言えば、皮肉にもマルクス主義の法則に則っていたと言えるでしょうか。

 

 レーニンの偉大かつ悲惨な革命は、一九一七年から一九九一年の間、ロシアを中心とした地においてシステムとして存在しました。ここまでくどくどとレーニンの革命について書いたのは、この革命には教訓が一杯あるからです。

(続)

【ロシアの社会主義運動−10】

 レーニンの革命について改めてまとめたいと思います。レーニンの党組織論は『なにをなすべきか(なになす)』で記されています。彼は、党を職業革命家の組織としました。これは、党を国家権力の完全な外部に置くという発想に基づいたものだと思います。議会に参加したのは、あくまでも「外部はある」と大衆に訴えるためでした。しかし、ここで難しい問題があります。ドイツやイギリスの歴史で書いたように、労働者は国家権力の内部そのものではないにせよ、国家権力の庇護の下にある資本家の運営する企業・工場の中で働いている、すなわち、内部にきわめて近いところにいる、という問題です。労働者が体制内化する根拠はここにあると小生は思います。だから、レーニンが「労働者の運動は、「外部」からの働きかけがなければ経済運動に終始する」という『なになす』における指摘は当然の指摘だと小生は思います。と、同時に、マルクスが言ったように――正確には、マルクスが第一インターの宣言でバクーニンらに飲まされた?――「労働者解放の事業は、労働者階級自身によってなされなければならない」のも事実です。昔から天は自ら助けるものを助けると言うじゃありませんか。一見矛盾しているようですが、「外部」からの働きかけにより労働者階級が自らの使命を自覚し、能動的に動くこと。そういう認識〜行為論が、ボリシェヴィキの基本になったと小生は思います。この時代の「外部」は、インテリたちによって認識された社会科学であったと言えましょう。さて、現在では?は、最後の最後に触れたいと思います。

 

 先にも触れましたが、レーニンの組織論は必ずしも党を大きくしませんでした。むしろライバルのメンシェヴィキの緩い組織論が有効に思えました。しかし、革命がいざ始まると、残酷な現実がむき出しになり、「大衆の隠された欲望」を引出し、答えることに成功したレーニンの党が主導権を得ることになります。但し、一九一七年二月から一〇月に至る過程の特殊性というものにも目を向けなければなりません。二月革命の段階で、国家権力の「内部」は瓦解していたということです。今や反革命として語られるコルニーロフやケレンスキーは、革命側にいたのです。中途半端で、古いものに妥協的な「外部」が、国家権力を握っているようでしたが、それは見せかけに過ぎませんでした。その状況はよく「真空」に例えられます。「神は真空を嫌う」という格言があります。自然において真空は空気などの流入によって破壊されます。むき出しの<力>が支配する時代、大衆の欲望に沿い、引出し、束ねることに成功した男がレーニンであり、ボリシェヴィキであったということです。レーニンその人は、「内部」を破壊して「新たな内部」たる「外部」であったとは言えません。見せかけで無力な「内部」という名の真空を埋めた「外部」であったと言えるでしょう。

 

 そしてその「外部」が新たな「内部」として固定される道は、血みどろの道でした。様々な無理解、見込み違い、古いものの強固さ。特に古いものの強固さにおののかないわけにはいきません。レーニンは「共産主義者も一皮剥けば俗物だ」と言いました。誰でも一皮剥けば俗物だと思います。しかし、俗物性を革命の時代にむき出しにすれば、命を落としかねません。否、もっと言えば、人間臭ければ危ないのです。そろそろ革命のもつ本当の恐ろしさについて書くべきときが来ました。(続)

【ロシアの社会主義運動−11】

 『共産党宣言』に描かれた革命論は、「下部構造の発展により上部構造が適合的でなくなり、爆破される」というものでした。しかし人類最初の社会主義革命とされるロシア革命は、資本主義が成熟する以前に、ツァーリズムという強大な封建主義がトップの無能と戦争への対応を誤ったために自壊した状況で起きました。レーニンはそれを「帝国主義の再弱の環」で起こったといい——この時代のロシアはレーニンの『帝国主義論』における帝国の定義と異なっていると思います——、多くの知識人は「資本論(マルクス主義)に反する革命」と言いました。


 マルクス主義者に指導されながら、マルクスの予言とは異なった革命、それがロシア革命だったと小生は思います。そのことはレーニンの天才を示すと同時に、革命の困難さを示すことであったと小生は思います。


 まず、レーニンが心まで獲得出来た大衆は、都市部の労働者と兵士だけでした。権力に至る過程で、四月テーゼという労働者・兵士の潜在的な欲望に道筋を与えたレーニンは天才だったと思います。しかし、農民にとっての革命家は右派を含む社会革命党の党員でした。そしてロシアにおいては、労働者は少数派で農民こそが多数派でした。十月革命後、状況によって押し付けられたとも言え、その状況を利用したとも言える戦時共産主義は農民を敵視する政策でもありました。そして農村との紐帯が完全に切れたとも言えない多数の労働者にとっても、ボリシェヴィキの政策は恐ろしく非人間的なものに見えたことでしょう。


 トロツキーはどこかで「社会の仕組みは比較的簡単に変えることができるが、人の心はのろのろとしか変わらないものだ」と言いました。革命的労働者と自称していようが、革命家と言おうが、長年続いた下部構造に対応した意識が簡単に変わるはずがありません。例えば、ブルジョア社会に適応するための、ブルジョア的な意識。この時代のロシアの場合はツァーリズムの中で生きていくための意識。様々の「遅れた」意識。それらは根拠のないことではないのです。


 政治革命が起こってシステムが変わったとしても、反動的な意識はしばらくは反動的なままですし、生れてから馴染んできた反動的なあり方を革命的なあり方よりも好む人もいるでしょう。ただ、革命で得られたシステムというものは大抵不安定なもので、それを埋め合わせるように理想が掲げられます。そして、その理想についていけない人間には、革命前とは別の意味での抑圧が必要なものです。ツァーリズムを打倒した後、社会主義革命にまで突き進んだロシアは、時間を掛けて熟成すべき意識が欠落した状態でした。そして、生命のやり取りが社会主義者のみならず、反動家、自由主義者の間で行われていました。いや、農村の状況を見れば、農民や地主らの間ででも、です。


 政治革命は理念を必要とすると小生は思います。そして、その理念が新時代の新たな約束、あるいは社会契約になるのです。しかし、大衆の意識の成熟がなければ、不安定な約束になるでしょうし、その約束と対立する旧来の約束に従うならば、抑圧が必要な場合もあるでしょう。ここは、日本の明治維新のことを考えましょう。武士は廃止されましたが、脱刀に従わない人が街を闊歩すれば? 銃刀法違反で逮捕されることでしょう。これくらいならまだましなのですが。ロシア革命の後の戦時共産主義の下で、商売に精を出せば、資本主義の復活を企てたものとして処刑の危険がありました。

(続)


【革命、そして民主主義−1】
 ちょっとまとめましょう。政治革命は、旧体制の完全な行き詰まりという条件のもとで起こります。レーニンは「被支配者がもう嫌だと思うだけでは不十分で、支配者がもう駄目だと思わなければならない」と、(政治)革命の条件を述べています。そして政治革命は、新たな理念を実現する傾向を持ちます。しかし大衆は新たな理念を体現しているわけではありません。多くは古い意識と行動様式を抱えています。それは往々にして、新体制の理念とぶつかります。そして、権力奪取後の革命政権というものは権力基盤——それは大衆のイデオロギー状況も含む——が脆弱なので、古きモノゴトに対して暴力的に対峙するものです。反動的傾向を示した大衆、場合によっては革命の指導部さえも、生贄に供されることは革命の論理に従ったものと言えます。そして恐ろしいのは「革命の理念」を決定する者は、独裁者であったり、大衆の熱狂であったり、要は、事前には予知できないところです。理性主義は、革命の中ではタテマエに過ぎません。

 すなわち政治革命という変革方法は、不安定ゆえにむき出しの暴力によって、しかも理性ではなく情念によって支配されるものだ、ということです。歴史を少しでも理解しているならば、政治革命が起きるということ、ましてや起こすということは、大変恐ろしいことであり、無理やり起こすことは傲慢なことだと感じることでしょう。では、革命は悲惨だから、避けなければならないのでしょうか? それも別の傲慢だと思います。

 というのは繰り返しになりますが、政治革命は旧体制の全般的崩壊という条件の下で起こるもので、それは革命を意図する側の問題ではないからです。革命の責任は、旧体制の側に殆どあります。「内部」がしっかりしていれば、多少の危機があっても崩壊するものではありません。また、根本的な変革が必要なことを自覚した場合、流血の惨事を防いで変革した封建体制もありました。デンマークのブルジョア革命、あるいは先に見たイギリスの変容が挙げられるでしょう。但し、どちらにしても、暴力的行為を引き起こすことの重大な結果を見越したもので、背景に暴力が全くなかったわけではありません。そして今は民主主義が先進国のルールとして定着しています。

 ドイツやイギリスの社会主義者を体制内化した仕掛けこそが民主主義です。民主主義は革命に至る全般的危機を防ぐ仕掛けであると小生は考えています。例えば資本主義の仕組みが資本家階級に有利であることは当たり前のことです。だから、資本主義体制の「外部」に位置する可能性の高い組合活動家や労働者階級の政党のメンバーが「外部」で団結して資本家階級に向き合うのも当然のことです。労働者階級が根本的に社会を変えようとするとき、革命という手段を選ぼうとするのも当然でしょう。

 革命の持つ破壊力を体制内に吸収し、体制を改良する。民主主義は革命を防ぐとともに、革命が目的とするものを、体制が飲まなければならないとすれば、吸収します。そういうものとしてあると思います。

 だから、「民主主義的手法による革命」という言葉は、そもそもは形容矛盾です。であると同時に、革命による成果は民主主義の目的とも言えます。

 ならば、民主主義でコト足れりと出来るのでしょうか。先ほどの脱刀散髪の話に戻りたいと思います。
(続)

【革命、そして民主主義−2】
 脱刀散髪を拒否して帯刀する人は、新しい時代を内面で拒否しているだけでなく、行動で拒否する人です。その行動は、新しい時代の法律によって弾圧されます。ここで少し抽象的なことを書けば、新しい時代の法律を破る人は、新しい時代の法律によって罰せられます。そして、新しい時代の規範に従わない人は、新しい時代の規範に従う人によって疎外されます。民主主義国家は法律と、それを支える強制力——軍隊、警察などの暴力装置が背後にある——によって支えられています。民主主義国家の法律や、法律に限らず規範となるものは、民主主義国家成立以前からの歴史によって育まれて来たものです。マルクスは、資本主義の誕生について「膏血を滴らせて」という表現を用いましたが、民主主義国家もまた、膏血を滴らせて誕生したのです。旧体制の支配者の反抗を打ち砕くための鎮圧や、独立のための戦争、あるいやソビエト=ロシアやあるいは戦後日本の誕生のように対外戦争という形で。イギリスとて、国王の首を刎ねた歴史があるのです。

 そして、民主主義国家が生まれたばかりの時は、古い時代の規範を構成員は抑圧し、新たな時代に適応して生きるようになります。勿論、最初に示したように社会革命が先行し、それによって意識が変わり、最後に政治革命が起こるならばスムーズに歴史は進むことでしょうし、そういう抑圧が必要なことは少ないと思います。だが、現実の社会の変化は少数の先行者と、それに続く者という形を取るようです。前にくどくど述べたロシア革命の場合はボリシェヴィキ中枢〜都市の労働者という形、そして本当に続いたかどうか怪しい農民がいました。新たな規範を貫徹するには古い規範を抑圧しなければならず、そして、極端な場合は、新しい規範に絶対に従わない人を、国外追放するか、この世から追放する必要があるのです。民主主義が規範を必要とするとき、それに従わぬ人に対して場合によっては凄まじい抑圧、弾圧を必要なことなのです。

 歴史家エドワード・ハレット・カーは民主主義は共通の前提を必要とすると(確か『危機の二十年』で)述べました。その前提を共有する気のない人に対しては、弾圧し、抑圧するものです。

 ここまでは民主主義国家成立時と、その後しばらくについてのお話です。言ってみれば昔話に相当するものです。しかし、この膏血を滴らせて生まれた民主主義国家は、未来において、新たな血を欲する可能性があるのです。

 ここで第一次世界大戦前のドイツのことを考えましょう。ドイツは社会主義者を受け入れ、体制内化しましたが、同時に、社会主義者がドイツを社会主義国家に変えることを防いでいました。普通選挙が早くから導入されたドイツは、民主的な国家であったと言えます。その国家で、時には第一党になったドイツ社会主義労働者党でも、ドイツの社会主義化には成功しませんでした。そして、第一次世界大戦の破滅的な状況の中で、左派は政治革命=暴力革命をやろうとし、皇帝の廃位までは成功しましたが、結果的に社会主義革命には成功しませんでした。これは勿論過去の話です。しかし、ここに示された構造は我々の未来の可能性の一つかも知れないのです。
(続)

【革命、そして民主主義−3】
 資本主義的な民主主義国家(ブルジョア民主主義国家)が欲する共通の前提。それは、資本主義の規範を自らのものにし、法律を守って生きることです。圧倒的多数の大衆は、その通り生きています。しかし、現実には様々な矛盾や軋轢がこの国家に生きている人々の間で生じていることはこのサイトに集う人々には説明不要でしょう。この矛盾と向き合い、考えを深めることで、次の時代のあるべき姿を認識する人々——ここでは仮に先覚者と名付けましょう——が出てくることもあるでしょう。しかし、その姿が、共通の前提と矛盾する場合は? 素直に考えれば先覚者を排除しようとするでしょう。しかし、民主主義国家の建前上、法律を守っている人を国家が排除することは出来ません。そこで行われることは、彼らの無力化です。先に挙げたドイツの場合は、体制内化して妥協できることは妥協するが、本質に係わるところでは排除しました。そのありようをレーニンは「ブルジョア民主主義はいちじくの葉に過ぎない」と皮肉りました。だから、そういうものは革命で吹っ飛ばされるべきだ、と。それも一理あります。しかし、先に記したように、ドイツでは右派の社会主義者が主流となり、体制内化が進んだのです。それは結論から言えば革命の放棄であったと言えなくもなく、それは目標としての社会主義・共産主義の放棄であったと言えなくもありません。革命家から見たら、ここにブルジョア民主主義の恐ろしさがあると言えなくもありません。ここだけ見れば、ブルジョア民主主義は革命の敵に見えなくもありません。

 しかし、「ブルジョア」という言葉を外してみると、それは民主主義と革命の関係の一つの可能性に過ぎません。確かに第一次世界大戦の時代よりも複雑なシステムに我々は絡め取られていて、次の時代のあるべき姿を認識、あるいは構想するのは中々大変なことです。どのようにして次を踏み出すかは、世界中の左派が頭を悩ましていることだと思います。さて、民主主義がブルジョア民主主義として、様々な限界——労働者階級の代表はこれ以上はタッチできない限界——があるとはいえ、導入されている先進国の難題をちょっと離れましょう。

 前に労働者階級が成長途上で、農民が多数を占めていたロシアのことを取り上げました。労働者の体制内化が進んでいない国家で、人類初の社会主義革命が起きたということに注目しましょう。その後、社会主義革命に成功した国は、ソ連の圧力によって成立した東欧諸国を別にすると、中国、ベトナム、キューバなど、革命当時は農業国ばかりであることが分かると思います。それぞれに独自性があり、資本主義の蚕食があったとはいえ、総じて農民の自立性が残されていたことに小生は注目します。物語として分かりやすいのは中国です。国際共産党中国支部として始まった中国共産党は、ソ連の「指導」により、当初は西欧の都市型革命を目指しました。しかし、上海蜂起の失敗と、共産主義に不信感を持った国民党の蒋介石の「皆殺し弾圧」とでも名付け得る弾圧により、実質的には都市部に残ることができませんでした。それはすなわち、労働者階級に依拠できないことを意味しました。そして農民に依拠した革命を主張する人間がトップに座ることになりました。毛沢東です。
(続)

【革命、そして民主主義−4】
 毛沢東は、「農村から都市を包囲する」戦略でもって、農村に革命の基盤を作り、ついには中国で共産革命を起こしました。彼は、国家(中華民国)そのものを敵とし、すなわち完全に国家の外部に立ち、その地点から革命を引き起こしました。そんなことが可能だったのは、自立性を保ちやすい農民に依拠したからだと小生は考えます。そして、政治の本質は「敵は殺せ」ですから、その図式に従い、かつて蒋介石が共産党員にやったように、毛沢東は軍事的に敵を殺しながら進撃しました。共産党に従わない地主は、子供も含めて一家丸ごと皆殺しに遭った話を、小生は大学生の時に日本に留学している中国人から聞いたことがあります。毛沢東は「鉄砲から政権が生まれる」と名言を残しています。これまで見たように革命による権力奪取とは、軍事なし、あるいは軍事的担保なしでは不可能です。

 さて。毛沢東の革命が成功したことは、多くの第三世界の民族解放闘争や共産革命を担う人々を勇気づけました。これらの世界の多くは農民が圧倒的に多く、国家の福祉なんかは無縁で、国家が敵と思うのに十分な根拠のある世界でした。一九四〇年代以降、武装した民族闘争、特に共産主義と結びついた民族闘争が世界中に巻き起こります。しかし、世界の革命運動のリーダーを自認するソ連は、先進国革命を重視していました。しかし、当時の先進国には、いわゆる革命の方法が適用できる条件は失われていました。表向きは社会主義への道は多様であると言いながら、実際には機械的に革命運動に図式を当てはめて支配してきたことは、ソ連やコミンテルンの歴史を見ればわかります。(余談ですが日本共産党はその被害者の一つと言えます。)表向きは先進国を帝国主義などと非難しながら、裏では各種取引を行なっていたソ連は、第三世界の革命運動で世界が揺さぶられることを必ずしも良しと考えていなかったと小生は思います。「ステータス・クオ(現状維持)」それが、ソ連の望む社会でした。革命があるにせよ、それは自らの利益に従うべき、と。

 そういう次第で、「資本主義万年危機論」などの愉快な理屈とは別に、条件のない先進国での革命を主眼に置くソ連の、国際共産主義への指導は、奇怪かつ筋の通らないものになり果てました。そんな中で、中国は第三世界への影響力を深めていきます。スターリンの死をきっかけとして起こった中ソ論争は、そういう流れの中で考えるべきですね。また、マニアックなものを(笑)。だが、ここで闘わされた世界革命に関する論争は、貴重なものだと小生は考えます。(小生が「日本共産党(左派)=中国盲従分子(爆)」のシンパだったことを書いておきます。今は訣別しています。)

 今から思えば、ソ連も中国も一理あることを言っていましたが、どちらも機械的に世界中に当てはめ、主導権を握ろう——まさに『「指導」という名の欲望』——とした点で間違っていました。上のような背景から、中国側の言うことのほうが一見筋が通っていると思います。ちなみに、当時の日本はまだ貧しく、激しい武装闘争の記憶も冷めやらない、あるいは宮本顕治支配体制が確立していなかったためか、日本共産党は中国寄りでした。まあ、日本共産党史は既に自主独立であったかのような言い方をしていますが、そこ、笑うべきところですね。苦笑いですが。

 そして、ソ連の主張は、革命の条件のないところに革命を起こそうという点で、無理のあるものであったと思います。
(続)

【革命、そして民主主義−5】
 戦後しばらくは先進国に革命の条件はなかった。ここははっきり書いておきたいと思います。しかし、時代は動きます。嘘とペテンで塗り固めたようなソ連は、チェルノブイリ事故をきっかけに、自らの維持のために変革することを余儀なくされました。ここで登場したのがゴルバチョフです。彼は、情報公開の必要性を痛感し、それを支持・指示しました。それは国家外部の情報の流通をも要求し、ソ連の物質的基礎である計画経済を揺さぶりました。小生思うに、ゴルバチョフは歴史的使命をやり遂げたがゆえに、ソ連は崩壊したのだと思います。ソ連の崩壊は、計画経済の不可能性を証明したことだと小生は考えています。それは当然、多くの社会主義国家が計画経済を捨て、市場経済に身を投じることになりました。それ以前から中国は市場経済を少しずつですが導入していました。世界は一つの市場に向かっていきました。いわゆるグローバリゼーションで、そのイデオロギーはネオリベラリズムと名付けられるべきものだと思います。

 グローバリゼーションで起こっていることで最も注目すべきことは、かつては「貧しい第三世界」「豊かな先進国」と言われた図式が崩壊しつつある、ということです。製造業を中心に、先進技術を含めた産業は発展途上国に大きくシフトしました。こうして、第三世界にも信じられないくらいの金持ちが生まれる一方、職を失った多数の労働者=失業者が先進国に溢れています。かつて社会主義者を体制内化するためにも作られた「福祉国家」は、グローバリズムによって全世界を貫徹する資本の論理により、「コスト高」として批判の対象となりました。福祉=コストというわけです。もし、グローバリズムの批判において、その論理に従っている個別の国家を批判し、その政策を批判すれば、どうなるでしょうか。投資家は逃げ、年金という形で福祉政策を支える株価は下がり、産業が逃げることにより失業者は増大することでしょう。現在、左派が行っている批判はそのようなものです。だから、既成の左翼政党は今、世界中で魅力を失っています。何か行き場がないように見えますね。どう考えるべきでしょうか。

 まず、国家における民主主義の機能は、グローバリズムによって無効化されていることを直視すべきだと思います。かつて人や物資の行き来には大変コストが掛かり——ほんの60年前を想像するだけで十分だと思います——、各国家の枠内で物事を考え、貿易などは「継ぎ足しもの」としても論理=実践的に特に問題はありませんでした。しかし、今は違うのです。そんな時代に、国家に偉そうに「ああしろ、こうしろ」という運動に、何の意味があると言うのでしょうか? 民主主義の機能は、世界大に拡張されなくてはなりません。これがまず、「我々の政治的課題」というわけです。
(続)

【革命、そして民主主義−6】

 そういう次第で、労働者階級はインターナショナリズムを取り戻さなくては話になりません。誤解を恐れずに言えば、国際共産党やそれに類するものの再建を果たさなければなりません。世界中の国家に因果を含めて政策を迫るような。ヤクザ用語で言えば、「クンロク入れる」ような組織を。

 おっと。書き忘れていました。グローバリゼーションは、世界中の労働者を競争に巻き込み、これはカール・マルクスが言ったように基本的には低賃金を世界中に押し付けます。それに対するカウンターは、労働運動や社会主義運動となりますが、これが一国だけに突きつけられるならば、資本がそこから逃げ出すだけです。そして以前よりも高失業率や不景気をその国家に齎すだけでしょう。だから、労働運動や社会主義運動は、国家の枠を超えないとどうしようもないのです。

 さて。マルクスの窮乏革命論は、現実によって否定されたように見えます。だが、どのように否定されたかを再度見てみましょう。労働者階級の運動が、ドイツやイギリスにおいて、社会主義運動と結びつき、そして国家はそれを取り込むことによって、それらの運動は結果的に体制内化しました。今、国家による労働者の体制内化は「コスト高要因」として排除する圧力が掛かっています。資本が各種の生産を、コスト高の国家や地域から引き揚げさせます。引き上げられると労働者は失業するので、より厳しい状況になります。かつて「先進国」という形で特権的な地位に就けたこれらの国の労働者は、世界に展開する資本の運動により無力化されました。いくら国家の中で体制内化していて利権化しているとしても、それを資本が避ければ彼らも没落するしかありませんし、現に没落しています。こうして、社会主義者や労働者の体制内化は無力化され、窮乏化が進んでいるのが現状です。

 そして、各種の国家を前提とした闘争は無力化していきます。国家を前提とした民主主義のルールは無力化をさらけ出しています。国家も、各種運動も、資本の運動の前に無力を晒しているように見えます。繰り返しになって恐縮ですが、国家の枠内で資本に対峙しようとするから無力に思えるのです。

 国際連帯。それが有力な答えです。だが、逆方向での対峙の仕方もあります。ローカルなルールを設定し、その中で民主主義を作ることです。例えば、メキシコのラカンドラのジャングルの中で、メキシコ国家とは一線を画して自治をしているサパティスタ。国際資本に包摂された国家からの離脱を目指し、国家の本質である軍事的にも渡り合いながら独立した地域を作っています。勿論、純粋に軍事的なものだけでは国家には勝てませんから、インターネットなどのメディアを駆使して自らの正統性を訴え、世界から多くの支援を得て自らを支えています。だが、この方法も膠着し、国家を変革し、ひいては世界を変革するには至っていません。しかしながら、膠着しているだけでも偉大だと小生は思います。彼らの持久戦がどのように展開するのか、要注目です。


(続)


【革命、そして民主主義−9】
 革命に備えるべき政党が、直接民主主義の場で鍛えられ、その成果を議会を通じて社会に反映させる。そうすると、民主主義の機能が回復する。すると、カタストロフとしての革命は遠ざかる、というわけです。それは同時に、革命の目的に近寄ることでもあります。ここに見た目の矛盾があります。しかしながら、カタストロフから遠ざかりながら、革命の成果を得ることが出来るならば、それに越したことはありません。しかし何度か書いたように、資本家階級は自らの支配の核心に労働者階級が触れることを許しませんでした。具体的には私的所有権について批判的に取り扱うことです。「その限りにおいて」議会に労働者階級の党が存在することを許しました。そして、その枠内で様々なものを獲得した多くの労働者、特に下層労働者は革命を忌避し、議会主義化=体制内化する歴史を選んだことはイギリスやドイツを例にして示した通りです。だが、多国籍企業、とりわけ金融資本の運動によるグローバリズムは体制内化という先進国の労働者の贅沢を許さなくなっています。先に、「議会に槍」と書きましたが、別の方向から金融資本は「議会に槍」を貫いています。こちらの力は、恐らくは左翼政党の槍よりも強大です。話は堂々巡りを始めてしまいました。

 結局のところ、状況を突破するには、「力」しかないことでしょう。国際的な団結、直接民主主義での闘技=討議を基礎とした革命政党の国際的な団結です。これらの繋がりは、同時的であり、全世界的でなくては意味がありません。我々は、革命のイメージを革命するところから出発するしかないように思います。果たして、暴力革命における、暴力(=強制力)をいかに世界的に担保するのか。あるいは、民主主義を階級的なヘゲモニー闘争の果てに、無限に外延させ、例えば私的所有権について労働者階級が生殺与奪の権利を握る。カタストロフを避け、結果的に革命の成果を得る。いずれにせよ、世界的な団結の力だけが、事を可能にすることでしょう。

 革命政党は、一見革命を防ぐために、民主主義のため、ブルジョア議会を守るために闘います。だがそれは、ありうるべきカタストロフのために、大衆の信認を得るためとも言えます。それは大衆の「力」を引き出し、集中するためと言えます。一言で言えば、「革命のための改良」となります。

 このように考えれば、たった一つの「ひっくり返し」で日本共産党には——共産党に限らないと言えますが、特に日本共産党には——大きな可能性があると言えます。それを説明するには、日本共産党の陥った歴史的な罠について触れないわけにはいきません。

【日本共産党の陥った罠−1】
 日本共産党。発足時の名称は「国際共産党日本支部」。ソ連の世界革命戦略に則って、ソ連の金で設立された党であるということは、ここの方々に説明するまでもないでしょう。だから駄目だと言っているのではありません。マルクス主義の革命は世界大で起きなければ維持することは困難なことですし、その意味では「国際共産党日本支部」というあり方は大変正しいと思います。しかし、ソ連は自分たちのやり方で世界で最初の社会主義政権を樹立したがゆえに、自分たちのやり方に過大な自信を持っていました。

 この時代の日本は、言うまでもなく明治維新によって出来た政府がありました。そして、若い日のレーニンが指摘したように、生命力のある若い帝国主義としての生命力がありました。そして若い帝国主義のイデオロギー的基盤には天皇(制)がありました。「天皇制」はマルクス主義者の造語とされ、その使用については色々議論がありますが、小生は言葉として有効だと思いますので、以後使います。明治の維新がどういう恐怖によってなされたかは、皆様に説明する必要はないでしょう。西欧列強への恐怖心からです。そのためには機能不全に陥りつつあった幕府を打倒する必要がありました。そこで見つけられたのが、天皇の下に幕府があるという構造でした。幕府を打倒するには天皇の権威を利用するのが手っ取り早い、と。こういうイデオロギーで明治維新は進んだわけですから、天皇はまさに日本の革命のイデオロギーの源であったわけです。

 勿論、多くの革命の歴史に見るように、革命のイデオロギーは、革命がシステムとして君臨すると反革命のイデオロギーに転化することが多いものです。明治維新の理想は、薩長藩閥を中心とする政府によって利権に取って代わられていきました。また、明治維新を推進したものは、広く国民大衆というわけにはいきませんでした。武士や庄屋、商人以外の大衆が国事に触れるという感覚そのものがなかったとのことです。ただ、天皇の錦の御旗のもとに、固陋な幕府を打倒し、天皇の名の下に団結したからこそ、支那その他のアジアのように、西欧列強の餌食になることは避けられたという思いはあったようです。「裏切られた革命」としての明治維新は西南戦争、自由民権運動を引き起こしましたが、それでも列強の餌食になるよりはマシなことだし、何よりも教育の普及もあり、天皇は君側の奸にも関わらず、エライもんだという思いが庶民にはありました。その状況は昭和の時代はおろか、現在にも続いている庶民感覚だと小生は思います。

 要は、天皇に対する素朴な尊敬が広く日本にはありました。そのことは日本共産党員が痛感していたことだと思います。そんな日本なのに、ソ連はツァーと天皇を同一視し、日本共産党の綱領に君主制廃止=天皇制打倒を記しました。党内には天皇制打倒について色々な考えがあったようですが、決定的なことは、天皇制打倒を受け入れる素地は日本の大衆には殆どなかったということです。大衆と日本共産党の乖離は、ここに刻印されました。
(続)

【日本共産党の陥った罠−2】


 天皇制打倒という綱領は何度か書き換えられる機会が戦前にもあったようです。だが、そのたびに、ソ連からの指導という名の命令により、止められました。今の日本共産党をも呪縛する三二年テーゼでは、まさに天皇制をツァーリズムと同じ絶対主義的なシステムとして措定しました。それがどれだけ、現実と合わないかは昭和史を少し紐解けば分かるのですが……。ともあれ、そのような日本共産党でしたが、純粋な若者の党であったこの党は、多数の有能な若者を内部に取り込みました。文芸評論の世界で輝ける人物であった宮本顕治、後に財界四天王と称される水野成夫など。彼らは多少の疑問を感じつつも、共産党を、共産革命を信じて活動しました。


 だが、革命運動とは残酷なものです。現実を突き付けます。日本の革命運動の主体は労働者や農民などの大衆です。権力の外側に彼らの組織を作るということは、彼らの意識に即しなければなりません。現実に立脚するとはそういうことです。エンゲルスはどこかで言いました。「革命運動には三つの面がある、労働運動、政治運動、そしてイデオロギー闘争」と。肝心なのはイデオロギー闘争です。というのは、考え方がしっかりしていないと、他の運動の展望を作れないからです。その肝心な部分がソ連製で、日本の実情を考慮していたとは思えませんでした。


 そのような大衆の意識からかい離した運動方針が大衆の間で通用するはずがありません。誠実な党員の中には、大衆の意識との乖離の本質である天皇制とぶつかることになります。日本の歴史と切断されたコミンテルン(国際共産党)由来の綱領は正しいとは思えない、と。こうして、現実と向き合う誠実な党員たちこそが転向していきます。転向しなかったものは、転向できなかっただけだと思います。例えば、獄中非転向の宮本顕治は、転向問題に直面する暇もなかったようですし(裁判闘争)、徳田球一ら若すぎる幹部たちは現場での活動経験に乏しすぎ、この問題に直面するレベルにさえなかった、など。


 こうして、転向と厳しい弾圧に晒された戦前日本共産党は半ば自滅していきました。権力によって、ソ連(コミンテルン)によって!


 戦後、日本共産党は「獄中非転向で戦争に反対した輝かしい歴史を有する政党」ということで、権威があり、終戦直後には人気もありました。非転向組を中心に、野坂参三らの海外帰国組も加わって。だが、体質を強く改め——すなわち歴史的な反省をする——ている時間はありませんでした。終戦直後の共産党人気はかなり強く、議席の伸びは大きいものでした。この勢いで議会を通じた平和革命という可能性を指導部が感じてもおかしくはありません。しかし、米ソが冷戦に向かう中、アメリカは共産党が政権を採ることを許すはずもなく、また、ソ連はソ連で、そんなアメリカの出方、アジアの情勢を考えていて中国と共に「平和革命は幻想だ、日本共産党は武装闘争を準備せよ」と指示します。この指示に従うべきと考える宮本顕治らの国際派、この指示を飲むことは党が血の海の中で死ぬことだと見抜いた所感派を中心に、党は分裂します。この分裂騒動はそれ自体としてとても興味深いものですが、肝心なことは、日本共産党がソ連などの権威にとても弱く、自分で考え、決める力が弱かったということです。結局、無理な武装闘争を行なった日本共産党は国民の信頼を失い、国会の議席を失いました。


(続)


【日本共産党の陥った罠−3】


 武装闘争の失敗と党の分裂という惨状の中、国際派主導で党の統一が図られました。そこでトップになったのが宮本顕治です。彼は議会制民主主義の力が強くなる現状を認め、選挙を通じて日本共産党が政権に就く道を選びました。とにもかくにも、この段階で、日本共産党は外国からの指示・指導を受け入れない、自主独立の党になったという点は評価すべきことだと思います。


 ただし、日本共産党の自主独立路線は問題含みでした。まず、諸外国の党からの不当な干渉を排したのはいいのですが、党内においては、かつて諸外国の党からコミンテルンなどを通じてやられたようなことを、党の幹部が下部組織に押し付けることは続きました。党が混乱した理由は党内の規律不足のせいであったと総括され、上意下達が民主集中制の名のもとに強められました。すなわち、構造的に何が問題だったのかという総括がなされたわけではありませんでした。こうして、異論については規律を持ち出されて排除される仕組みが出来てしまいました。以後、「ソ連盲従分子」「中国盲従分子」「新日和見主義」などなどのレッテルや、あるいは不正告発についてさえも規律を口実に排除されることが続きました。


 次に、平和革命路線という形容矛盾の問題です。日本共産党は議会で多数派を占めて革命をすると言いますが、先に見たように、「革命」というならば、それまでとは断絶的な変化があるということが前提で、それは議会を含め、何をどこまで破壊するのかという構想が必要なはずです。また別の見方をすれば、断絶なしで変化させるならば、そもそも「革命」なんかではなく、改良に過ぎません。日本共産党はこういう点を曖昧にしています。すなわち、日本共産党は革命政党を自称しながら、革命の問題を回避しています。繰り返しになりますが、議会を通じた平和革命というのは、それだけでは路線として不可能なことなのです。

(続)

【日本共産党の陥った罠−4】

 そもそも、革命とは暴力を担保しなくては無理なことです。その担保を明示せずに革命を言うことは無責任なことです。そして、暴力に拠らずに議会を通じて革命するならば、それは改良を行うということです。一体どちらの道を日本共産党は選んでいるのか。

 しかし、この小生の問題設定も、今の時代では既に古いものかも知れません。というのは、国家レベルの議会が世の中全般に強制力を発揮できた時代だったからこそ、妄言であるにせよ「議会を通じた革命」などと言えたからです。先に見たように、資本の運動に対して国家は無力をさらけ出しています。

 対抗運動は、まだまだ弱いものですが、世界中で起こっています。それは今のところ断片的で、地域的で、時間継続性が心もとないものです。これらに実効性を持たせるには、やはり今ある政治の力を利用する手はないでしょう。ネグリらがイメージしているであろう変革の方法では、世界を覆うことについては心もとないというのが小生の結論です。革命のイメージを革命すること。ここからしかはじめようはないと思います。その点において、日本においては日本共産党は他の政党と比較して有利なところがあると思います。

 前にその有利さを使うためには、日本共産党はたった一つ「ひっくり返し」をする必要があると言いました。それは、民主集中制の回転方向を逆にするということです。

 日本共産党は、各地域の討議を通じて意見を吸い上げ、地区でまとめ、中央委員会などの全国組織で出てきた意見について討議し、機関紙(赤旗)を通じて返答し、行動指針を示してそれに党員は従うことになっています。こういうスタイルで民主集中制を運用していることになっています。しかしそこにはわかり易い欠陥があります。まずは地区で意見をまとめる際に、その地区のトップの意見に合わないものを上に伝えないことが可能です。また、同じことは中央までで繰り返されることでしょう。すなわち、行動指針にまで反映される意見というものは、ごく一部の意見しか反映されない可能性があるのです。はっきり言えば、民主集中制をこのように運営することは、上の覚えが目出度い意見しか反映されないことになります。

 次に、党員を「地区」あるいは「職場」という単位の属性でしか見ないという欠陥があります。どんな人間であっても、多数の属性があり、それは社会との多様な関わり合いがあるということです。本来なら、その多様な関わり合いを活かした組織論でないと、今の時代に説得力のある方針を出せるはずがありませんが、共産党はそういう動きを分派として禁じているようです。

 ちょっと具体的に書きましょう。小生は、化学産業労働者として20数年働いています。そこで得た知識のいくつかは、世界に通用するものであると自負しています。そこにある問題については、深い専門知識がなければ理解も解決もつかないものがあります。そのような専門知識を蓄えた労働者を、党は多数持っているはずです。そして、それらの党員が集まって討議することで素晴らしい方針が出ることも大いに考えられます。しかし、それは「地区」や「職場」の単位を横断してつながなくてはならないこととなり、党は「分派」として禁止しています。そんな党ならば、党員の持つ潜在力ではなく、党幹部の持つであろう限られた力以上に党は力を持ち得ません。
(続)

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