で氷川涉たんのネトウヨの曖昧な定義とはリンク先にあるわけだが、この手の自戒というか、自分がいつ非難される「あっち側」に行くかもしれないという自覚を持って行動するのは、実はかなり難しい。

たとえば創価学会にせよ共産党にせよ、やっている人たちは善意でやってる。これは間違いない。ネトウヨも反ネトウヨも同様だ。自分たちが悪いことをやっている自覚なんてない。だからこそ「こんなに頑張っているのに」「周囲の無理解」にいらつきもするし、怒りも感じる。

しかし、そんな感情は第三者には全く関係なく、表出された行動のネガティブな側面だけから判断される。たとえそれが相手の方から暴力をふるってきた時に対抗上相手をぶん殴っただけだとしても「暴力をふるった」ということだけが一人歩きし、評価される。それにますます苛ついて、運動家たちはますます袋小路に追い詰められ、支持者をなくしていく。

この流れを断ち切るのは本当に難しい・・・。だって現場でやってりゃマジに思うよ。人間には感情がある。叩かれてりゃ対抗したいと思うし、抵抗しないと相手はますます馬鹿にしてくる。そんな中で堪え忍ぶことがどれほどしんどいことなのか、経験した者でないとわからない。

ただ、個人的に思うのは、すぐに罵倒に走るタイプの人は、本当の怖さを知るような経験はしていないだろうと言うこと。

長年オチしていて思うのだが、@bcxxxとかデモや集会の参加者とか主催者の話には、「こんな反対集会を主催する、参加するボクってすごくね?」みたいな高揚感を感じていると見受けられることがままある。

高揚感のある行動は楽しいだろう。しかしそこに突如機動隊やならず者集団がこん棒を振るってきたらどうする?今はせいぜい「殴った」か、「体を押した」か、あとで罵倒合戦のネタになるくらいだが、昔はマジにゲバ棒警棒振り回してくる連中と渡り合ってたんだよ。本当の革命前の情勢なら、銃弾も飛んでくるんだよ。

そんな中、運動を進めていくのに必要なのは高揚感ではない。恐怖に耐える胆力と危機回避を行う冷静な判断力、そして、ここぞという時には死んだら地獄に落ちるのを覚悟した力の行使だ。そんなことが必要な運動のどこに高揚感があるのか?

すなわち、本当の怖さを知れば、敵を不用意に刺激する罵倒など、そう簡単にすることはないのだ。やる時はルビコン川を渡る時・・・と経験者は語る()が、まぁ誰にも理解されないだろうな。

え、おまえはいつも共産党を罵倒しているじゃないかだって?この程度が罵倒に見えるんなら、そう見える自分のおつむを疑いなさいw

こちとら共産党が隠している暗部や、アホ騙すためのウソハッタリとか、馬鹿にされる理由を解説してあげている親切きわまりないのがぼくちんなんですよw